Thursday, September 30, 2004

update info

blogのタイトル、記事のタイトル、日付等にtext-shadeの効果を追加。残念ながら、これはほとんどのブラウザで対応していないようだ。今のところ対応しているのはMac OSに搭載されているSafariのみのようである。Safari意外のブラウザでは文字に陰はついて表示されないのでご了承願いたい。

現在トラックバック機能を追加しようと思っている。が、Bloggerはトラックバックに対応しておらず、Blogger意外のトラックバックサービスを行っているところもあるようだが、このサービスを使うと著しくページの表示速度が落ちるらしく、導入を迷っている。

"HaloScan"(トラックバック&コメントをblogに追加できるサービスを提供)
http://www.haloscan.com/

Wednesday, September 29, 2004

XLVII-th stone: 信頼するということ、許すということ

すこし、久しぶりになる。最近、"信じること"について考えている。何を信じるかというのはいろいろあるのだが、特に"他人を信じる"ということについてだ。まず"信じる"ということはどういうことだろうか。正しい論証に基づく事実や科学的な定理は信じる信じないに関係なく無条件に正しい事柄だ。しかしこの論証というのは"Aは正しい”、”Aが正しいならば、Bも正しい"、だから”Bは正しい"という論理の鎖でできている(3段論法)。ということはこの鎖をどこまでもたどっていけば、ぐるぐる事実が循環しているかもしくは始まりがあるはずだ。

まず、この始まりがある時、その事実は論証なしで正しいと使われているはずだからこの事実はみんなが真実だと信じるしかない。こういうのを論理学的には"公理"という。この何の確証もない上でそれを事実と認めること、それを信じるというのではないだろうか?しかし、現象をいくつも観察したときに、論証はできないけれども、非常に"確からしい事実"というのもある。ダーウィンの進化論もそれにあたると思う。"ある種の競争の中で強いものが生き残っていく"という意見は今ではほぼ間違いないと思われているがこういうのは信じるというのだろうか。僕はこういうのを事実だろうと認めるとき"信じたい"と行った方が正しいのではないかと思う。こういう風に考えると人を人を信じるといわれる行為は"信じたい"という行為というふうにいえるのではないだろうか。自分がこの人のことを信頼しているというのは"この人は自分が苦難や困ったときに助けになる"という事実を信じたいと強く願っているということなのではないだろうか。

この意見をふまえて、"許すということ"について考えてみたいと思う。ここでの"許す"というのは法律をおかしたときにそれを免ずるとか、そういうたぐいのことではなくて、人が人の心を傷つけてしまったときの"許す"という行為のことを言っている。私はこの"許すということ"は"信じるたいとこと"と非常に深く関連していると思う。自分の心が傷つけられたと表現するときは多分、相手が自分の予想した行動とはかけ離れていた行為をしたことによって、自分が"信じたい"事実がゆらいだときではないだろうか。そんな時その人への信頼は大きく揺らぐのではないか。しかし、相手のその行為を"許す"という時、どんな心の動きがあるのだろうか。相手の本心は自分では決してわからないものの、やはり元々自分が"信じたい"と思っていた事実を否定せずにその心を貫き通そうと決意した時に"許し"という行為ができるのではないだろうか。”その人はこんなことはしないはずだ。少なくともこんなことをしたいと思ってしたのではないのだ"と自分が思い、"信じたい"と決心したときに"許し"がおこると私は思う。

では、この"信じたい"という決心できるかどうかに影響してくるのはなんだろうか?それは"信じたい"事実を裏付けるような小さな助けや思いやりの積み重ねだろうか。通常の場合はそうだと思うのだが、しかし積み重ねたものだとするとそれは崩れることもあるのだ。
いくら頑丈に積み重ねたとしても大きな衝撃があれば崩れてしまうのではないかと思う。でも、しかし、人は人を愛するとき、この相手を"信じたい"という思いはかげりを見せたり弱くなったりもするが、"信じたい"と思う心が折れないのではないだろうか。そう思える相手を本当に愛しているというのではないか。これを逆に考えると、自分が許されないだろうと思ったような過ちを犯し、相手が許してくれた時、大きな大きな相手の中の自分を"信じたい"と思ってくれる心に触れる。そんな心に触れたときに自分の中で相手の事を"信じたい"と思う気持ちが膨らむのではないだろうか。相手と話し合い、本心を知って相手の"信じたい"気持ちを理解したときにも、自分のなかの"信じたい"と思う気持ちが膨らむだろう。そしてだんだん相手の"信じたい"気持ちを裏切らないようになっていくのだろう。人間は過ちをおかすものなので、きっとまた相手の"信じたい"という気持ちを裏切ってしまうという事を繰り返すのだ。繰り返したときに萎えてしまわないほど堅い"信じたい"心のことをもしかしたら愛とよぶのだろうか。

なにかまとまらない文章だが、今の考えを素直に記しただけなのでよしとする。

Friday, September 24, 2004

XLVI-th stone: 何がどう見えるか?

以前(XXXVI-th stone)、経験主義について書いた。経験主義とは簡単に言うと、すべての考えや知識を感覚を通して得た経験に基づくことで導こうとする姿勢である。この姿勢に基づくと私たちは経験ゼロの状態で生まれてくるので、生まれたときには何もかかれていない(何も知らない)状態であって、外部からの刺激を感じることによって色々な知識を形成しているといわれる。また我々ができるのは知覚することだけであって、物自体を知覚することはできないという事も結論づけられている。この経験主義という物の考え方は17世紀から18世紀初頭に盛んに行われた。有名な人にロック、バークリ、ヒュームなどがいる。

時はすすみ18世紀になり、この考えを拡張した哲学者が現れた。かの有名なイマヌエル・カント(A.D.1724--1804)だ。彼は経験主義も合理主義もどちらも少しずつ間違っていると考えた。合理主義というのはあらゆる認識ははじめから意識の中にあるというものだ。つまりプラトンのイデア説を受ける物である。カントが指摘したのは、私たちが感覚を通して何かを経験するとき、感覚も理性もそれぞれ一役になっているという事だ。合理主義は理性に、経験主義は感覚を重視しすぎると言った。少し難しいが経験主義において人間は感覚を通してのみ知識を構築し得るのであるが、その感覚をどのように把握するかは曖昧であった。カントも知識は感覚をとおした経験からやってくると考えたが、感覚をどのように把握するかを決める前提条件は僕たちの中の理性(=論理的な思考をする心)の中に最初からあるとした点で合理主義的な立場を取っている。この前提条件というのは世界のとらえ方を左右する制約のようなものである。カントは人間に感覚が入力されるときに、人は自然にサングラスを通して世界を見ているときのように、何らかのレンズ(フィルター)を通して知識に変えているというのだ。簡単に言うと赤いサングラスをかけて世界が赤く見えるからと言って世界は赤いわけではないのだ。カントは知識は経験から生成されるのだが、人間は生まれながらにこのような感覚に対するフィルターのようなものを持っていると言うことを指摘したのだ。彼は人間は何を見ても"時間"と"空間"の中に現れた物として受け止めておりこれを"直感の形式"と呼んだ。この2つの意識はあらゆる経験より前に存在する(アプリオリ)と言っている。私たちは何かを経験する以前から時間と空間という形式(フォーム)をもっているというのだ。しかしカントがこの"直感の形式"と読んだものは人間の意識の特性であって世界の特性では無いと言った。水をグラスに入れれば水はグラスの形に変わるように、いろいろな感覚はこれらの形式によって受け入れられるのだ。

まとめて言えば、経験主義では”世界は経験できない”と言われていたのだが、私たちは確かに世界を知覚できる。この一見矛盾したように聞こえるところに新しい見解を導入したのだ。”世界そのもの”と”我々にとっての世界”というのを明確に区別したのだ。カントによれば”世界そのもの”はやはり知覚できない。しかし人間は共通の"直感の形式"というのを持っており”我々にとっての世界”はいちいち経験しなくてもどう受け止められるかはいえるということだ。カントにしてみれば、ヒュームの言った因果律などの自然法則は知覚も証明もできないといった事をとんでもないと思ったわけだ。彼はこの因果律というのは世界の特性ではなく人間の思考の特性だとしたことで人間の意識が空っぽなんかではないということを指摘したのだった。経験主義では”何が見えるか?”を議論したのに対してして、カントは”何がどう見えるか?”を議論したという事になる。
(因果律は証明できない(ヒューム):ビリヤードの玉Aがもう一つの静止している玉Bに衝突した所を経験したら人間は玉Bが動いた原因として玉Aの衝突を認識するだろうが、このとき知覚したのは"玉Aが玉Bに衝突した"という所と"玉Bが動いた"という2つの現象を知覚したにすぎなく、玉Aが直接の原因だとは経験だけでは証明できない。と、ヒュームは言った。)

カントは人間は感覚を通して地の素材を手に入れて、それらは理性によって色づけされると言った。そこで、”世界はどうしてできたのか?”といったような理性が加工する感覚の素材が全く持って無いような事を問る場合、理性は空回りし、その結果正反対などちらもありそうな結果にたどり着くというのだ。たとえば”神は存在するのか?”を問うてみても結局存在しそうであるし、存在していなさそうであるという結論に達するということだ。

この記事はすべて「 "ソフィーの世界(上) 普及版" ヨースタイン・ゴルデル著 須田 朗監修 池田香代子訳 NHK出版」を基にしているが、その中にこんな言葉があった。
"もしも人間の脳が私たちに理解できるほど単純だったら、私たちはいつまでたっても愚かでその事を理解しないだろう"
非常に的を得た言葉だと思う。私たちは”自分自身が何者なのか”という問いに答えられるという事はほとんど望めないほど複雑であるのかもしれない。今度は、この後に現れるロマン主義からヘーゲルの構築した理性の発展の法則について触れたい。

Thursday, September 23, 2004

XLV-th stone: Fiber to MY Home

先日、私は生まれて3度目の引っ越しというものを経験した。最初の2回は私が生まれて2歳までに経験しているので、記憶には残っていない。であるから、ほぼ生まれて初めての引っ越しであった。20年以上寝食ともにした家を離れるというのは感慨深い体験であった。それと同時に新しい家への期待も高く複雑な心境であった。現在は新しい家で新しい物に囲まれて快適な生活を送っている。タイトルからそれてしまったので話を戻そう。

引っ越しの話は関係なくはないのだ。前の家で、インターネット環境としてY社のADSLを利用していた。私はADSLが私の住む名古屋で開始された頃から使い始めて、当時利用していたサービスの会社は現在Y社に吸収された為、サービスもそのまま移行されるという形でY社のサービスを利用していた。その時は特に不満があるわけではなかった。引っ越しに伴い回線交換機に取り付けられているDSLの機械の再工事が必要になり、それはY社が費用を負担してくれたのだが、いかんせん非常に回線スピードが劇的に低下したのだ。そのY社が提供するスピードチェッカーで回線スピードを計測してみるとなんと下りが67k bps(bit per socond)。ISDN回線に毛が生えた程度のスピードしかでていないのだ。いくらベストエフォート型のサービスであっても私が加入しているのは8Mbpsのコースだ。100分の1以下のスピードで耐えられる納得できるはずもなく、サポートセンターに電話をしてDSLの機械の再工事を頼んでみた。昨日その工事がおわり、これでやっと普通のADSLのスピードに戻れるかとおもいきや、全く速度が変わらずであるのはどういうことか。非常に納得がいかないが原因が思いつかないわけでもないのだ。このDSLの機械もモデムもスプリッタも異常はないので理由としては私の家の回線の立地条件を疑うしかない。私が引っ越してきた地域は比較的古くからの家も多く電話線等も非常に古いものが多いと考えられるので、これ以上は私の方では手の打ちようがないと判断し、新たに光ファイバー導入を検討した。

色々検索した結果。Asahi-netのBフレッツファミリーコースに決定。9月30日まではキャンペーン中でNTTに払うBフレッツ初期工事費用が無料となり、プロバイダ料も7ヶ月間は無料になるというお得さである。結局NTTへBフレッツサービスの代金を支払うだけで家まで光ファイバーがくるのだ。光ファイバーのファミリーコースの最大理論速度は100Mbps。現在の我が家のADSLのスピードが0.08Mbpsなので、光ファイバーを使ってもし理論値の100Mbpsが出たとすると、現在の1250倍。理論値は出ないとしても数百倍のスピードアップということになる。先ほど申し込みを完了したので、4営業日後くらいにNTTから電話が入るはずである。光ファイバーを利用したインターネットのスピードはどれくらい出るのか、非常に楽しみである。

XLIV-th stone: 今そこにある危機

今日久しぶりにある友達に会った。彼は車関係の仕事に就いているが、私が一言。
私:「最近エンジンを切ってキーを抜いても、オーディオがなりっぱなしで何秒かした後に切れるんだけど、なんでだろうね?」
友:「うーん。あ、それ結構やばいよ。」
彼が言うには、オーディオというのは通常イグニッション(エンジンを点火させる為の電源)と電源が共通な為エンジンを切ったと同時にオーディオが切れるはずだというのだ。彼はまた考えられる原因として、通常エンジンはECU(Engine Control Unit)というコンピュータが制御している。そしてこのECUは後処理の為にエンジンを切った後何秒か遅れて電源がカットされるのが通常である。もしかしたらこのECUの電源回路とイグニッション回路の電源がショートしてしまっているのではないか。というのだ。

少し考えただけでもこの状況のまずさは解るだろう。イグニッションというのはエンジンを直接駆動させるための電源である。この回路が何であれほかの回路とショートしている可能性があるのだ。なんらかの影響でイグニッション回路に悪影響を与えないとは言い切れないのだ。

しかし、この症状はもうかれこれ半年くらい続いており、今のところ異常な動作はしていない。もし上に書いたような原因であればこれだけ長い間、なにも無かったのが幸いである。早速明日にでもディーラーに相談してみるつもりである。

Monday, September 20, 2004

XLIII-th stone: VOLUNTAS

今日は”ボランティア”について書きたいと思う。私は来年開催される愛・地球博でボランティアをすることになっているのだが、今日そのための研修プログラムに参加した。そこで”ボランティア”についていろいろ知ることができたのでここに書き残したいと思う。

まず語源はラテン語の"VOLUNTUS"に由来している。この言葉の意味は”自由意志で決意する”ことである。また通常”ボランティア”という活動は以下の5つの基本的な理念に基づいて行われるという。
1.自発性 2.無償性 3.公益性
4.先駆性 5.継続性

今日はこの理念について思ったことを書きたい。プログラム中、この5つの理念についてのディスカッションがあったが、言葉の意味から言えば”自発性”は含まれるだろう。”2.無償性”にしても英語の"volunteer"を奉仕と訳すことがあるようにあまり意義なはいように思う。”3.公益性”についてもボランティアという言葉をつかって奉仕活動がなされる場合、通常団体が団体に奉仕していて、含まれる事があるだろう。個人が個人を助けているような活動についても、極論になってしまうが、自分以外の”公”の構成員である相手を助けたといえないこともない。

私が思うのは4、5について、通常一般的にボランティアという言葉を聞いた場合、思い浮かべる方は少ないのではないだろうかということだ。私がこの5つの理念を聞いたときに疑問に思ったのは”4.先駆性”と”5.継続性”だ。私が”先駆性”という言葉を聞いたとき思い浮かべた別の言葉がある。"frotier"だ。これは開拓者という意味もあり、ほかの誰もやっていないような事をやる、という事を意味だ。フロンティア精神などという言葉も耳にしたことがあるだろう。ボランティアにこの意味での先駆性は必要ないのではないかと思ったのだ。この意見は少数だったようでディスカッションをしてみると、”災害時などに誰よりも先に駆けつける”という意味での”先ず駆けつける”性だと感じる人が多かったようである。これは非常時や災害時は重要なことだと思う。が、しかしボランティアという言葉を聞いて違和感を感じることは否めないのが私の意見だ。しかしこの自発的に先駆性に駆られて誰よりも行動する人がいることから先駆性という理念に基づいてボランティアが行われるというのは間違いではないのかということを気づかされた。

次に"4.継続性"だが、これも簡単に含まれるとは言い難い。まずボランティアは自発的であるという前提。その自発性からこの自発的な気持ちが継続する可能性は特定できない。自分にゆとりがあるときは自発的な気持ちは持続するだろうし、自分にゆとりが無い場合はこの自発的な気持ちは生まれてこないのではないか。またこの継続性を気にしすぎるとプレッシャーになり逆に自発性の妨げになるような感じがある。のでこのボランティアが行われるときに基になる理念として継続性は私は納得できていない。

またこの5つの理念がボランティアをやっていく時間のなかで変化していくのが見えるという意見もあった。”先駆性”を私が最初に取った意味で"frontier"だと採るとすると、まず誰もやっていないような事例を見つけてボランティアを開始する。この時はこのボランティアは”先駆性”に基づいている。そしてその運動が大きくなり、その活動が社会に認められるようになってくれば、そのボランティアは”公益性”に基づいて活動するようになるだろう。そしてそのボランティアを必要にする人が増えてくれば今度は”継続性”という理念も付加されることになる。という物だ。この理念の時間的推移は非常に興味深かった。

今日は、”ボランティア”という言葉に対する思いや印象は様々であるが、”ボランティア”という活動がしたいと願う人たちと一緒に意見交換をできたことは非常に有意義だったと思う。

全く今日の記事には関係ないが”クイール”とは”鳥の羽根”という意味だそうだ。

Saturday, September 18, 2004

XLII-th stone: The Power of the Rings

ここ2,3日かけてThe Lord of the Ringsを3作通して見た。見終わった後の印象としては、非常にすがすがしいというさっぱりというか後腐れがないかんじである。この物語はもうここまで、これ以降は物語はないというところだ。ただやはりすごく長い。個人的にはもっと短くしたほうがよいのではないかな、と思う。しかし、この映画を通してつくづく人間の欲深さというのを思い知った。その欲に駆られて人は人を裏切ったり傷つけたりしてしまうという事も。裏切られた人は相手が欲に駆られて自分を裏切った事で非常に傷つくだろう。この映画の場合はそれが指輪の魔力によるものだったので裏切られたとしても信じることができるが、実際の生活の中でそれがおこったらどうだろうか。と考えると怖いところがある。

私はこの手のファンタジー物は苦手だと思っていたが、そうでもないようである。まぁまぁ見ることができた。そこまで大好きというほどではないが、楽しむことができたし、なにより見終わったときの気持ちよさにかけてはこの映画はよかったとおもう。

全然話が違うが、一緒に"クイール"という映画を借りてきた。一匹の子犬の物語のようだがすごく泣けそうで期待している。

Friday, September 17, 2004

XLI-th stone: Blackhole

私は通常iBook 14inchを使用している。OSはMac OS X 10.3.5である。1ヶ月か2ヶ月ほど前にiBookを購入して以来非常に快適に使っている。が、しかし困ったことにこのMac OS Xにはファイルを消すという操作がないのだ。無いというのは言い過ぎだが、通常ファイルはdeleteするとゴミ箱に移されるだけなのだ。そしてゴミ箱を空にしたときに初めてゴミ箱の中のファイルだけがディスクから消去されるのである。よってユーザはゴミ箱を定期的に削除する。この使い方はもっともだが、私のように誤操作などによって同じないようのファイルができたり、長いことゴミ箱を空にするのを忘れるとゴミ箱の容量だけでHDDの容量を圧迫してくるのである。そんなとき、ゴミ箱の中のファイルを選んで消去(完全に消す)したいのだが、それをする方法が見あたらないのだ。必要なファイルだけどこかに待避させて、ゴミ箱を空にしてまた戻すという手段がすぐに思い浮かぶが非常に面倒である。OS X はUNIX basedなのでTerminal (Application->Utilities) を開いて、shell promptからrm というコマンドを使えば完全に消去はできるのだが、これもまた面倒である。

個人的にはゴミ箱の隣くらいにBlackholeゴミ箱のようなアイコンがあってそこにファイルをドラッグすると完全に消えるようなソフトがほしいと思い立ち、作ってみた。Xcodeを使うのは初めてだので、だめで元々。おそるおそる開いてみると、AppleScript-base Dropletというのがある!これだと思い、プロジェクト作成。applescriptの勉強からだったので簡単ではなかったが、ドロップされたファイルリストを順番に"rm -rf"で消していくだけという単純な物が完成した。全くの個人向けに作ったので、何かが起こっても責任はとれないが、コメント等は歓迎します。(需要は少なからずあると思います)

Blackhole version 0.1 (OS X versoin)

使い方は非常に簡単。
ディスクイメージをダウンロードしてマウント(ダブルクリック)。その中にあるBlackholeというアプリケーションをアプリケーションフォルダにコピー。そのアプリケーションフォルダのBlackholeをDockにドラッグ。これで使う準備は完了。あとは完全に消去したいファイルを適当に選んでBlackholeのアイコンにドラッグアンドドロップすると、確認ダイアログがでるのでYESを選べば、完全に消えてくれる。

今回applescriptについて少し勉強したが、覚えればかなり使い勝手がよさそうな物である。このscriptがあれば大抵の動作は自動化できるだろう。また、気が向いてscriptを書いたら、アップロードしよう。

XL-th stone: ローマ数字

本日で40-th stoneを迎える。始めてから、来月でもう一年。早い物である。途中かなりペースが乱れていたが、このペースで一年で50個は行きたいと思っている。本日のローマ数字"XL"はあまり見慣れないのではないだろうか?"L"は50を表す数字である。よって"XL"で40というわけだ。今回はローマ数字の書き方を紹介したい。

まず、ローマ数字で書かれる数字は7文字。I, V, X, L, C, D, Mで、それぞれ1, 5, 10, 50, 100, 500, 1000を表す。5000,10000を表す記号もあるようだが、ほとんど使用されない。書き方は大きい位から順に左から右へならべていく。2331であれば、MMCCCXXXIというふうだ。全部足して同じだからと言って、順序をかえてCMCXXMIXなどと書いてはいけない。大きな単位の数字から順に書いていくのが規則だ。4や9は昔はIIII,VIIIIと書いていたようだが、のちに減算方式が作られ(いつかは不明)IV,IXと書くようになった。この減算方式があるため上にかいたように順序を変えてはだめなのだろう。8は通常VIIIと書くがIIXという記述も残っており、あまり厳密な表記法は規定されていなかったようだ。減算方式も統一的に採用されたのではないようで、14世紀の著名な英語の料理解説書The Forme of Curyでは、4をIIII、9をIXと書かれている。同じこの本の中で、書かれた年代が10年ほど古いだけで4をIVと書いてある箇所もあるのだ。ただ現代の基本的な表記法は上で述べたとおりである。

ローマ数字の歴史は、古代ローマ人が農耕民族であったことから説明されている。羊の数を数えるのに、木の棒に刻み目を入れた。柵から1匹ずつヤギが出て行くたびに刻み目を1つずつ増やしていった。3匹目のヤギが出て行くと"III"と表し、4匹目のヤギが出て行くと、3本の刻み目の横にもう1本刻み目を増やしてIIIIとした。5匹目のヤギが出て行くと、4本目の刻み目の右に、このときだけVと刻んだ(∧と刻んだ羊飼いもいた)。このときの棒についた刻み目は"IIIIV"となる。6匹目のヤギが出て行くと、刻み目の模様は"IIIIVI"、7匹目が出て行くと"IIIIVII"となる。9匹目の次のヤギが出て行くと、IIIIVIIIIの右にXという印を刻んだ。棒の模様はIIIIVIIIIXとなる。31匹のヤギは、IIIIVIIIIXIIIIVIIIIXIIIIVIIIIXIと表す。このように刻んだのは、夕方にヤギが1匹ずつ戻ってきたときに、記号の1つ1つがヤギ1匹ずつに対応していたほうが便利だったためである。50匹目のヤギは、N、+または⊥で表した。100匹目は*で表した。これらの記号は、ローマのそばのエトルリア人も使った。エトルリアのほうが文明が栄えていたので、そちらからローマに伝わった可能性もある。1000は、○の中に十を入れた記号で表した。

やがて時代が下り、羊以外のものも数えるようになると、31は単にXXXIと書かれるようになった。5はしばらくVと∧が混在して使われた。50はしばらく⊥かそれに似た模様が使われたが、アルファベットが伝わると混同してLとなった。100は*が「⊃|⊂」になり、よく使う数なので簡略化され、Cや⊃と書かれ、そのまま残った。500は、最初、1000を表す「⊂|⊃」から左の⊂を外し、「|⊃」と書かれた。やがて2つの記号がくっつき、Dとなった。Dの真ん中に横棒が1本入る書体も使われた。1000は、○に十の記号が省略されて「⊂|⊃」となった。これが全部くっついたのが、Φに似た記号である。これが別の変形をし、上だけがくっついてmに似た形になり、アルファベットが伝わると自然とMと書かれるようになった。
(" 参考資料: http://ja.wikipedia.org/wiki/ローマ数字 " )

Wednesday, September 15, 2004

update info

以前デザインを変更したときにカウンタも無くなったままだったので、カウンタを新たに設置。今となっては読んでくれている人は多分いないと思うが、かすかな望みを胸に設置してみた。

XXXIX-th stone: かき氷

今日、なぜだかは不明だがかき氷が食べたくなって、自分で作ってみた。家のかき氷は電動なのでかなり楽に作れる。個人的には宇治金時が好みだが急に食べたくなった訳なのでそんなものはあるわけもない。前にイチゴを食べたときに買ってあった練乳があったので、それをかけていただいた。練乳の味はままよいのだが、なぜかジャリジャリするだけであまりおいしくない。なぜだろう?

ちょっと気になってかき氷について調べてみた。かき氷のおいしい条件というのは、かいた氷が柱の形で口に入れるとすぅっと溶けるようなかき氷と言われているそうだ。そのかき氷の作り方は至って簡単。氷にすこしだけ気をつかってやることだ。理想としては少し「汗をかいている氷」を使うことだそうだ。冷凍庫の中でガンガンに凍らせた氷を使うとつぶつぶっぽく逆にジャリジャリになるのだそうだ。よって普通に凍りで作った氷でも作る少し前に冷凍庫から氷を出しておいて、表面が汗をかいたくらいで作るとよい。

かき氷の歴史は思ったより古い。平安時代から凍りをかんなで削って砂糖蜜等をかけて食べていたそうだ。清少納言も「枕草子」で削り氷を口に入れたときの涼味の素晴らしさ残している。氷が人工製造されるようになったのは明治16年頃だそうだが平安時代の宮廷では夏になると家臣たちに氷が配られる行事があったという。そのために京都付近にはいくつもの氷室を所有していたといわれている。

調べていた中で「フラッペ」という名の事についても見つけた。1950年代後半にアイスクリームの普及によって、駄菓子屋から姿が減りかけました。その頃かき氷に「フラッペ」という名をつけてメニューを開発し、1970年代に喫茶店やレストラン業界にPR。再びかき氷は「フラッペ」という名で爆発的に全国に広がりました。「フラッペ」の語源はフランス語のfrapper(=凍らす)から英語のfrappe(=果汁を凍らせたもの)、かき氷にリキュール酒をかけた飲み物と言う意味だ。
(" 参考資料:http://www.wondertable.com/doc/whatsnew/y072/y072.html")

余談であるが、スターバックスコーヒーの「フラペチーノ(R)」は「フラッペ」と「カプチーノ」の造語で、カプチーノのようになめらかなフラッペという意味だそうだ。このフラペチーノ、初期のスターバックスコーヒーには存在せず、スターバックスで働くパートナーさんによって考案されたものだそうだ。個人的には混ぜながら飲むことをおすすめする。飲んでいると必ず氷だけが残り、味の薄いかき氷のようなものが残ってしまうのだ。つねにかき混ぜながら飲むとおいしい。

Tuesday, September 14, 2004

XXXVIII-th stone: The Lord of the Rings

以前から見たい見たいと思っていたThe Lord of the Ringsだったがついに借りることができた。チャンスが無かったわけではないがいままでそこまで見る気があったわけでもなかった。私はこの手のファンタジー物と呼ばれるジャンルは苦手である。すべての世界は作られ、そこを支配する自然法則までもが作られている場合があるからだ。しかし、昨日紹介したとうり、私個人の中で「実際の世界」というものがゆらいでいるおかげで見る気が起きてきたようだ。たとえば石を投げれば放物線を描いて地に落ちる。これは私が生まれてそういう経験しかしてこなかったからそう思うのだ。加えて重力の法則があるということも学校で学んだからだ。しかし石は本当に落ちているのだろうか?実際の世界は私たちが今想像しているような世界ではないかもしれない。Men In Blackという映画に出てくるように銀がは一つのビー玉のようで外の世界では怪物がビー玉遊びをしているようなものかもしれない。そう考えると私たちの知覚する世界と想像の世界に大差はないように思えてくる。しかし私は「実際の世界」を感じるし、そのとうりであると思いたい。

XXXVII-th stone: 読みたい本

読みたい本が増えてきたのでこの辺にメモしておこう。
・"ソフィーの世界" 普及版 (下) ヨースタイン・ゴルデル著
 上巻は読了したが、哲学の歴史が時の流れとともに物語調にまとめてあって非常におもしろい。

・"科学革命の構造" トーマス・クーン著
( Thomas Khun "The Structure of Scientific Revolution")
 新しい発見をするには今までの方法論では発見できない。アインシュタインが時間と質量の関係を結ぶために相対論という新たな考え方を出したり、古典力学で解明できなかった物を粒子と波を同一視した量子力学という学問によって解明したように。こんないろいろな時代に起こった科学革命に関する考察

・"科学的発見の論理"(上下) カール・R・ポパー
(Karl R Popper "Logic of Scientific Discovery")
 科学哲学の古典の一つであると同時に、「確率」という概念の解釈に関する鋭い論究。分析哲学の立場に立つ本書の内容は、仮説の反証可能性に関する議論から、1930年代当時ハイゼンベルグの不確定性原理をめぐって論争が行われていた量子力学の統計的解釈にまで及んでおり、哲学のみならず物理学に興味をもつ学生にとっても教えられることが多いらしい。

・"磁力と重力の発見"(1〜3巻) 山本義隆著
本書は科学、特に現代では自然科学と呼ばれる分野をギリシャ時代から説き起こしたもの

・"ゲーデル、エッシャー、バッハ──あるいは不思議の環" ダグラス・R・ホフスタッター著
本書は数学、絵画、音楽の分野における3人の天才の偉大な業績を取り上げて、その共通性(たとえば、再帰的構造とか「図と地」の関係など)を明らかにしたもの。

Monday, September 13, 2004

XXXVI-th stone: この世は存在するのか?

人はどのように知識を得ていくのだろうか?その知識の導き方(物の考え方)の一つ経験主義という考え方がある。これは感覚が私たちに語りかける事柄から世界のすべての知識を導き出そうとする姿勢のことを言う。この考え方の原点はかの有名なアリストテレス(B.C.384--322)までさかのぼる。彼はマケドニアで生まれ、プラトン(B.C.427--347)が61歳の時(B.C.366)に18歳でプラトンがアテネに開いたアカデメイアにやってきて、20年間学んだという。彼は"まず先に感覚の中に存在しないものは、意識の中に存在しない。"といった。プラトンが唱えたイデア説に対する批判である。

経験主義哲学者のジョン・ロック(A.D.1632--1704)によれば、私たちの思考内容と観念はすべて、私たちがかつて感覚した事のあるものの反映にすぎない、と考えた。赤ん坊の時、私たちが世界を"知覚"しない内は何も知らないと言うことだ。けれどもやがて、私たちの感覚は機能し始める。見る、匂いを嗅ぐ、味わう、さわる、聞く。こうして感覚の単純な概念が少しずつできあがっていくというのだ。またこの観念は蓄積されていくだけではない。意識の中で感覚の観念は考えたり、理由付けされたり、信じたり疑ったりされながら加工される。そうして、いろいろな観念が加工されて複合観念という物ができあがるというのだ。具体例を出そう。初めてリンゴを食べたとき、まだリンゴという観念は存在していないはずだ。初めて食べたとき、赤い球体を見、甘酸っぱく、汁気たっぷりのがりがりとかたい何かを食べたのだ。まだ一回食べただけではリンゴでは無い。何度もにたような経験を積み重ねることによって"リンゴ"という観念が作り上げられるのだ。だからもとをたどっていっても単純な知覚が見あたらないような知識は偽物な知であるとロックは言っている。

今回のタイトルはロックのやったもう一つの課題、"この知覚はどこからくるのか?"つながっている。当然僕たちが感じることのできる世界。この世界は感じるとおりの物なのだろうか?これに関連してジョージ・バークリ(A.D.1685--1753)はおもしろい事を言っている。ロックは我々の知覚は物質の世界が存在してそこから来ると考えた。しかしバークリは"存在するのは我々の知覚だけである。"といった。確かに知覚があることは確かだ。が、しかし物そのものを知覚する事はあるのだろうか?という事だ。物体はそれ自身は決して知覚されることはない。見たりさわったりして、自分の中の観念と照らし合わせて、"物"を認識するのだ。バークリは"知覚するからといってそこに実体が存在する"と結論づける論理の飛躍を指摘したのだ。

非常に不思議な話である。私個人としてはバークリの意見に賛成だ。では世界とはいったい何なんだろうか?知覚できないこの奇妙な物はいったい何なのだろうか?すべての人が共通して知覚しているこの世界は?みんなの意識の中にある世界と実際に存在する世界とはどう違うのだろうか?そうすると、今度は"存在する"という定義が問題になってくるのであろう。実際に存在を確証できるのはこの場合は知覚していることを知覚している自分の精神だけではないだろうか。あとのすべて、自分の体ですら、体自身を知覚することはできないのだ。

本日書いた内容は「 "ソフィーの世界(上) 普及版" ヨースタイン・ゴルデル著 須田 朗監修 池田香代子訳 NHK出版」を元にしている。

友人に哲学を勉強している人がいるので、この疑問をぶつけてみた。また解答を書くことにする。

Saturday, September 11, 2004

XXXV-th stone: 覆水盆に返らず

この故事成語は、「一度してしまったことは、2度ともとには戻らない」という意味だ。人を傷つけてしまったときは過ちを犯したことを素直に謝罪するだろう。しかしこの謝罪とは何なのだろうか。自分が他人に対して過ちを犯してしまったとき、その人に許してほしくて謝罪するのだろが、許してもらえないとしたら謝罪の意味などあるのだろうか。許してもらえないと言うことは自分の犯した過ちは永遠に許されないということになる。こういう事を経験した人は死ぬまでその罪の意識とその人への謝罪を胸に生きていくのだろか。いくら謝罪しても許してもらえないならば、謝罪をあきらめていいのだろうか。許されないからと言ってその罪から逃げるだけでいいのだろうか。そうでは無いと、僕は思う。自分にできるのは、いや「すべき」なのは、その人に与えた心の傷の重さを理解しようと自分のした過ちを悔い、二度とその過ちを起こさないように精一杯生きる事だと思う。その人との関係が元には戻らないとしても。そして人間として最低の行為をしてしまった人はその後悔しても後悔しきれない気持ちをどこへもぶつけることは許されないのだ。それは自分が犯したことの罰なのだから。その罪の咎は相手に許してもらえない限りとれることはないし、許してもらったとしても覆水はもう盆には返らないのだ。「自分の行為には自分で責任を持つ」と言うことについて以前書いたと思うが、私にはそれができなかった。その結果として人を裏切り、信頼を無くしてしまった事を後悔し、謝罪の気持ちを胸に、2度と過ちは犯さぬよう心に留めて生きていきたい。