Monday, September 13, 2004

XXXVI-th stone: この世は存在するのか?

人はどのように知識を得ていくのだろうか?その知識の導き方(物の考え方)の一つ経験主義という考え方がある。これは感覚が私たちに語りかける事柄から世界のすべての知識を導き出そうとする姿勢のことを言う。この考え方の原点はかの有名なアリストテレス(B.C.384--322)までさかのぼる。彼はマケドニアで生まれ、プラトン(B.C.427--347)が61歳の時(B.C.366)に18歳でプラトンがアテネに開いたアカデメイアにやってきて、20年間学んだという。彼は"まず先に感覚の中に存在しないものは、意識の中に存在しない。"といった。プラトンが唱えたイデア説に対する批判である。

経験主義哲学者のジョン・ロック(A.D.1632--1704)によれば、私たちの思考内容と観念はすべて、私たちがかつて感覚した事のあるものの反映にすぎない、と考えた。赤ん坊の時、私たちが世界を"知覚"しない内は何も知らないと言うことだ。けれどもやがて、私たちの感覚は機能し始める。見る、匂いを嗅ぐ、味わう、さわる、聞く。こうして感覚の単純な概念が少しずつできあがっていくというのだ。またこの観念は蓄積されていくだけではない。意識の中で感覚の観念は考えたり、理由付けされたり、信じたり疑ったりされながら加工される。そうして、いろいろな観念が加工されて複合観念という物ができあがるというのだ。具体例を出そう。初めてリンゴを食べたとき、まだリンゴという観念は存在していないはずだ。初めて食べたとき、赤い球体を見、甘酸っぱく、汁気たっぷりのがりがりとかたい何かを食べたのだ。まだ一回食べただけではリンゴでは無い。何度もにたような経験を積み重ねることによって"リンゴ"という観念が作り上げられるのだ。だからもとをたどっていっても単純な知覚が見あたらないような知識は偽物な知であるとロックは言っている。

今回のタイトルはロックのやったもう一つの課題、"この知覚はどこからくるのか?"つながっている。当然僕たちが感じることのできる世界。この世界は感じるとおりの物なのだろうか?これに関連してジョージ・バークリ(A.D.1685--1753)はおもしろい事を言っている。ロックは我々の知覚は物質の世界が存在してそこから来ると考えた。しかしバークリは"存在するのは我々の知覚だけである。"といった。確かに知覚があることは確かだ。が、しかし物そのものを知覚する事はあるのだろうか?という事だ。物体はそれ自身は決して知覚されることはない。見たりさわったりして、自分の中の観念と照らし合わせて、"物"を認識するのだ。バークリは"知覚するからといってそこに実体が存在する"と結論づける論理の飛躍を指摘したのだ。

非常に不思議な話である。私個人としてはバークリの意見に賛成だ。では世界とはいったい何なんだろうか?知覚できないこの奇妙な物はいったい何なのだろうか?すべての人が共通して知覚しているこの世界は?みんなの意識の中にある世界と実際に存在する世界とはどう違うのだろうか?そうすると、今度は"存在する"という定義が問題になってくるのであろう。実際に存在を確証できるのはこの場合は知覚していることを知覚している自分の精神だけではないだろうか。あとのすべて、自分の体ですら、体自身を知覚することはできないのだ。

本日書いた内容は「 "ソフィーの世界(上) 普及版" ヨースタイン・ゴルデル著 須田 朗監修 池田香代子訳 NHK出版」を元にしている。

友人に哲学を勉強している人がいるので、この疑問をぶつけてみた。また解答を書くことにする。

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