XXVIII-th stone: Long Vacation
いつぶりだろう。去年の年末以来、自分の内外にさまざまな事が起き、このポストを続けられなかった。しかし最近ようやく自分の中で踏ん切りがついたというか、再開してみようという気になった。
約5ヶ月間何が起こっていたかを説明したい。以前「許すということ」についての投稿をした。それに関係があるからだ。5ヶ月前ほどに考えていたことを書こう。
人の価値観は多種多様である。その価値観に沿って人間は行動を選択する。これは前から紹介しているとうりだ。そして人間の反応と行動の間には認識というスペースがある。が、しかし私は物事を体験した直後の「反応」が自分として許せない場合がある。自分の倫理観にそぐわないものや自分が他人にこうしてほしいのにしてもらえないという場合だ。他人にこうしてほしいというのは、他人の心を操作できない以上あきらめるしかないのかもしれないし、倫理観だって人それぞれだ。結局自分をコントロールする以外に方法はないのだろう。とおもっていたものの、うまくいかないまま時は過ぎていた。そんなとき、しかし倫理観というのはこんな多種多様でいいものなのか?この世の中でひとつの物事に対して「正しい」か「正しくない」というのは人によってそんなに違っていいものなのか?という疑問だった。そして「ゆるす」という行為について考えていたとき、こんな言葉をきいた。自分が他人の行為をみて気分を害するとき、それは自分でも行っている可能性が高い。というものだった。そうすると、「他人を許せない」ということは「自分でも許せないことを実際にしている」。そして「他人をなんとか許そうとしてる」ということは、「自分を許そうとしている」ということではないかと思うようになった。私がいままで「許す」という事をしたことがあるのだろうか?とも考えた。なんだかんだいっておきながら、結局「他人は他人。自分は関係ない。」と目を向けないようにして痛みを感じないようにしていただけなような気がする。そして最終的には「自分で自分を許す」事はできるのだろうか?と考えた。自分で自分を許してしまった場合には倫理観は崩壊する。倫理観というものが自分の中で存在が認識できる以上、自分で自分を許すことはできないのではないか。という結論にいたった。極論ではあるものの、自分が犯してしまった過ちは自分で許すことはできないのかもしれない。素直に認めて再び犯さないようにすればよいのだ。しかし他人に対して過ちを犯してしまい、それが許されないようなものだったら・・・。それはあまりにもつらすぎる人生ではないだろうか。自分でもその罪を許せず、相手にも許されず、そんな中を歩いていかなければならないのだろうか。また自分では悪いと思わないことも他人にとっては悪いことだった場合はどうなるのだろうか。と、「自分で自分は許せない」という事と「絶対的な倫理観」は存在するのだろうか?という事を考えていた。
5ヶ月のブランクはあったが、私なりにこの問いに答えが出たように思う。少し以前のバランスを失っているので、最初のころのようにたくさん投稿できるかどうかわからない。自己管理の方法が少し崩れてしまっている。最近やっとこさ少し戻ってきたように思えるため、このblogを再開したいと思う。
今はこのblogを読んでくれている人はほとんどいないと思うが、
また、以前読んでくれていた方がまた読んでくれることを願います。
1 Comments:
なぜ、タイトルの隣にdotsの絵がでない?
Post a Comment
<< Home