Friday, December 19, 2003

XXVII-th stone: 初雪?

今夜は非常に冷え込むようだ。もしかしたら初雪になるかもしれない。雪と聞くと、やはり季節柄「ホワイトクリスマス」という言葉が心にふぅっと浮かんでくる。なぜだろう。クリスマスというだけで非常に神秘的な気分になる。キリスト教を信仰しているわけではないが、中学高校とキリスト教の学校へ通っていたため、イエスが行った善行はいろいろ知っている。キリスト教の中で神がこの世に使わしたとされているイエスが生誕した夜というだけで非常に神秘的ですべてに幸せがもたらされるような気がする。

なぜ、クリスマスはこんなに人に神秘的かつ幸せな気分をもたらすのだろうか。この聖なる日に世界中の人々が一人の成人の生誕を祝う気持ちを持つという一事だが、皆の気持ちをあわせて巨大な祝福となって世界を包むからではないだろうか。そんな風に思う。

私は名古屋に住んでいるが、今年名古屋でクリスマスイブに雪が降ると1995年以降8年ぶりとなるようだ。この聖なる夜が純白の雪で包まれることを祈る。

Thursday, December 18, 2003

XXVI-th stone: 1年の計は師走にあり

久々の更新である。本日、研究室で毎年恒例の中間報告会が終了し、先生にいろいろダメだし、ではなく指導、してもらって論文の方向性が固まった。あとは論文を書いてまとめるだけなので、平穏な年末が過ごせそうである。

ところで、「一年の計は元旦にあり」という言葉がある。一日では短すぎないだろうか?私が思うのは、1年の計とは1年の計にあらずということである。私が思うには自分の目標の中には1年という期間がその目標に対して短すぎるという場合がある。その場合には1年でできることは少なすぎて、5年10年先の目標に向かうための途中の1年といった感じである。もちろん1年という期限を設けて挑戦してみたい事などは1年でよいのだが。

「1年の計」の内容は人それぞれであるが、1年でできることを設定すべきだろう。すなわち5年先10年先の目標も、小さな目標に分割して来年の目標、1年で実行できるくらい小さな単位にして、設定すべきなのだ。それをするには1日だけでは短すぎではないだろうか。ということで、私は1年の計は師走にありとでもいいたい。今まで自分がしてきたこと、感じてきた事、考えてきた事を振り返り、来年はどの方向に進むべきか。1年後にはどこに立っていたいかを、決めるのは半月から1ヶ月くらいの準備期間が必要ではないかと思う。

あと、私が推薦する目標の設定の指針を紹介する。(なかなか実際はうまくいっていないが)
「目標はSMARTに」である。これはフランクリンプランナーという手帳(プランニングツール)によって提案されているものである。
1.Specific
 目標はあまり抽象的ではなく、具体的なものであること
2.Mesurable
計測できるものあること
3.Action-oriented
資質の改善だけでなく、改善するためにはどうすればよいかという行動を促すものであること
4.Realistic
あまり、非現実的でなく、ある程度達成可能な予測の立つ現実的なものであること。
5.Timely
取り組む時間のないものは目標に立てない。

この5つの要素を並べてSMARTとなる。この中でも私が困るのはMesurableでないものが多いということである。これを実際書いていて気づいたのだが、私が毎回Mesurableでないという事で悩むほとんどは3.で記述されている、「資質の改善」というものになっているようだ。ということでいままでMesurableにできない、できないと悩んでいたのは実はAction-Orientedでなかったのかもしれない。Action-Orientedであれば、実際その行動が自分として達成できているかは測ることができるのだろう。

Monday, December 08, 2003

XXV-th stone: 目的は手段を正当化する?

先日、学部時代に入っていたサークルの先輩が結婚されるとのことで、その2次会に呼ばれて、参加してきた。新郎新婦ともにとても幸せそうでとても楽しい会だった。幹事の方も本当にご苦労様でした、と労いの声をかけ、帰ってきた。そこでは久しぶりにサークルのほかの先輩の面々も勢ぞろいだった。

そこでの話の途中でこんな会話があった。
「目的は手段を正当化するって言葉があるだろ?自分がそれをしたいからとか、こういう結果がほしいから、こうする。自分の倫理観や価値観にあってるから、これでいいんだ。って思ってやるというのは、いかがなものか?この言葉の言うとおり、目的が欲しいので自分には非常に寛容になりがちだ。」
非常に説得力の有る言葉だと思う。僕も、何か行動を起こすときはそれが自分の価値観や倫理観にあっているかどうかは確認する事が多いがこの手段を正当化してしまっているかどうかは、考えた事がなかった。自分では自分をみつめ、自分を良く知った上で選択した行動であっても、それは目的を達成するために寛容になっていて、自分の価値観、倫理観にあわせようという思考の結果かもしれないのだ。

この言葉を聞いて、それを選択しようと思ったとき、もういちど自分を客観的にみて、もう一度再考する習慣を身に付けたいものだ。


【追記】edge searchingについて、先日の条件だと、すべての点が偶点(次数が偶数の頂点)であった場合は1.奇点が存在する(必ず偶数個存在する)場合にはその奇点の数の半分でできてしまう。先日の投稿中の以下の点を訂正する。
誤「最小人数は何人だろうか?一度clearになったら再度汚染されることはないとし、clearになったedgeは後戻りはできない」
正「グラフ中に同時に存在するclearerを最小にするためにはどうしたらいいだろうか?また、clearerによってguardされていない汚染された辺に隣接された辺はclearしても、次のステップで再汚染されてしまう。」

Friday, December 05, 2003

XXIV-th stone: edge searching

さて、先生と議論の結果、昨日言っていたように、巷では解けているのだが、今回の結果にも意義がないわけではないので、修士論文の内容としては適当なのでは。という結論にいたった。ということは?修論の内容決定ということですよ♪この内容で修論書いていいってことです。大変嬉しい。研究というのは期限内にやれといわれてやるものではないと私は思っている。しかし期限なしでは何も結果なしで「下手のよこずき」というかただ好きなことをしているというだけになってしまう。しかし、この修論では外に発表しにいけるレベルの結果ではないので別の方法を考えなくては。

それに関して今日面白い問題を見つけたので紹介する。まず、無向グラフG=(V,E)が与えられる。問題は以下のとおりだ。
[edge searching game]
G=(V.E)中のすべての辺が有毒ガスで汚染されている。以下の手順を繰り返し用いて、すべての辺をclearにするにはどうすればよいか?
また、clearerの最小人数は何人だろうか?一度clearになったら再度汚染されることはないとし、clearになったedgeは後戻りはできないとする
a)ひとつの頂点に新しいclearerを配置する
b)頂点からclearerを削除する
c)clearerを辺にそって移動させる。(汚染された辺の一方の端点にclearerがいてそれをその辺にそって動かしたとき、その辺はclearになる)

適当なグラフを自分で書いて調べてみるとおもしろいとおもう。自明であるが一筆書きできる図形はes(G)=1となる。実はこのclearerの最小数をedge searching numberといいes(G)と記す。この値はグラフのpath-width(pw(G)),またはproper-path-width(ppw(G))と非常に深い関連をもっており、graph のVLSI layoutを考える上で非常に重要なパラメータになっているのである。

Thursday, December 04, 2003

XXIII-th stone: 悪循環

前回のゼミで発見した問題が、解けそうな気がしたのだが(半分ぐらいは実際解けた)、よーく調べてみると、完全に解かれている模様。最近このパターンが多いので、結構悩んでいる。解けそうな問題があると飛びつく悪い癖である。結果が調べたいのだが、そういう時に限って、インターネットというのは非常に不便である。テキスト検索しかできない!私は「これこれこういう定理(または事実)」が既に証明済みか、openなままかを知りたいのだ!こういったときにインターネットは役に立ったためしがない。まぁ、文句ばかりいっていてもしょうがないからということで、頑張ってキーワード検索でいろいろ試していると、よさそうな論文というのはたまに見つかったりするが、それより先に検索していても頭でその問題を考えているのだ。で、「お?できるんじゃないか?」なんて思いついたとたん、キーボードからは手がはなれて、メモ用紙とペンに向かってしまう。

この世にはopen problemリストのようなものはないのだろうか?実際surveyなどもあるにはあるが、それも著者によってわかっている事実ばかり並んでいるものが大半なような気がする。まぁ、結果の表現の方法は多々ある。よってopenなproblemリストがあったところで、部分的にしか解けてなくても(条件付で証明できた等)、結果として十分報告される可能性がある。が。しかしあったらあったでとても便利なのだが。

頭を使って考えるのは良い事だと思うが、研究結果につながるかどうか、よく調べた上で考え始める事にするしか方法はないのかもしれない。問題を発見した時に読んでいた論文の著者等に問い合わせたりしみてもよいかもしれないが。

なんと言ったところで、修士論文はまた瀕死の状態に逆戻りなのは事実なようだ。

Wednesday, December 03, 2003

XXII-th stone: ゆるすということ

私の心情として、「人を裁かない」というのがある。なぜなら、人の心の重みはその人にしかわからないと思うからだ。人の心を判断するとき、人間は客観的にみているつもりでも、多分その人の尺度でその物事や悩みの重さを考えて評価するだろう。僕には少なくともそうはしたくないと思える。人それぞれ悩み、苦しみ、その人なりに判断しているからだ。それを自分の尺度で測って、それはすべきではないと軽々しくは言いたくないのだ。

いくら裁きたくないといっても、そうしてしまう事がある。それが自分としては許せないのだ。今までさんざん、反応と行動の間にはスペースがあるといっておきながら、こういうことをかくのも気が引けるのだが、最近許せないのは自分自身の心の初動だ。行動なら自分で選択できるので、なんとかしているのだが、心の動きとなると話は別な気がする。最初の心の動きが自分にとってすごく嫌な動きになるときがある。それを次の瞬間に認識して、他の方法で捕らえようとレンズをかけて捕らえようとしている。反応を選択しようとしている事は、それはそれでいいと思うのだが、最初に変に思ってしまう、この心の初動というのか、それが僕は変えたくて仕方がない。

で、タイトルの「ゆるすということ」だが、「ゆるすということ」と言う本のなかでは、すべてを手放し、ゆるせば楽になると、すこし宗教的な感もあるが書いてあった。その本には「エゴ」の声に耳を傾けるな。ともある。「エゴ」の声というのは僕が今許したくない心の動きそのものなのである。この声をゆるしてしまってもよいのだろうか?「僕は僕であるから」という解釈で自分の心の動きを制限しないというのはよいものだろうか。かといって「ゆるす」という言葉を掲げて、自分の心の動きを変えてしまってよいものだろうか?今、自分としてはその動き自体認識して、裁かないようにしようとしているのだから、それはそれでよいような気もするが、最初から人を裁く心をもたないようになりたいものだ。

今の僕には、「常に裁かない」というのは無理なようだ。で、そんな僕を自分で許そうとするのだが、僕にはその「ゆるす」という事が自分から逃げているように思えてしまうのだ。この問題は簡単には変化はできないだろうが、少しずつ時間をかけて変化させていけば、変わっていけると信じている。僕が今できるのは逃げずに、今の自分を認識し、どちらへ変えていけばよいかをしっかり見極める事だと思う。

久々にquoteをひとつ紹介する。迷っているときにやけにならないで思いとどまらせてくれるようなquoteだ。

「どっちの道に進みたいのかわからなければ、どっちにいったって結果は同じさ。」(不思議の国のアリス)

【追記】全然関係ない事だが、今月は「読書強化月間」とした。目標も少し高めに設定してある。今は村山由佳著「君のためにできること」という小説を夜は読んでいる。朝読んでいる三国志のほうは今月中に8巻まで読了する予定である。

Tuesday, December 02, 2003

XXI-th stone: 5時間耐久

今日のゼミは異常に長かった。
先生とも、かなり言い合ってしまったが、かなり充実したゼミであったことは確か。最後のほうは先生も僕もヘトヘトになりながら、切れ気味の先生を相手にドキドキしながら、議論していた。まあ、昨日崖っぷちだったアルゴリズムも、詳細に解析すればなんとか許してくれそうな雰囲気。
その後の論文読みでも、いろいろ新しい問題が発見できたため、少し安心。こちらの結果が出たら、こっちを修論にしてもよいような。
核となる問題が2つくらいあるが、それらが解けたら芋づる式にいろいろな定理がでてきそうである。また、この結果がどこにも報告されていなければよいのだが。調べるより先に問題を解く方に力が入ってしまうのは仕方ないのだろうか?
いまから、あと2ヶ月。気合をいれて行こう。しかし、年末の週末は忘年会やら同窓会やらがおおいな。

あと、ひとつ。
本日、このサイトがmyblog japanの方へサイト登録されました。
これで、googleの検索でのヒット率も少しはあがるだろうか。これを読んでくれいている皆さん。もしよろしければ相互リンクおねがいします。
今現在はgoolg.comにて"MileStones to EVERPEACE"と検索してもhit数0という悲しい状況である。

Monday, December 01, 2003

XX-th stone: 崖っぷち

うーむ。深刻な問題に突き当たってしまった。修論用に用意していたアルゴリズムの適用範囲が非常に狭いことが発覚。
このままだと、修士号どころか卒業できるのか疑問だ。明日のゼミで先生になんといわれることか・・・・。いまから路線変更せねばならないかもしれない。
ということで、今年の年末年始はなしかもしれない。かといって、急いで結果がでるという世界でもないから非常にたちが悪い。
とにかく、今まで以上にまずい状況になってしまった。とにかく明日先生にゼミで発表して相談してみることにしよう。

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本日、研究室の後輩の日記のページを2件追加
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Yohey san desyuyo