Wednesday, December 03, 2003

XXII-th stone: ゆるすということ

私の心情として、「人を裁かない」というのがある。なぜなら、人の心の重みはその人にしかわからないと思うからだ。人の心を判断するとき、人間は客観的にみているつもりでも、多分その人の尺度でその物事や悩みの重さを考えて評価するだろう。僕には少なくともそうはしたくないと思える。人それぞれ悩み、苦しみ、その人なりに判断しているからだ。それを自分の尺度で測って、それはすべきではないと軽々しくは言いたくないのだ。

いくら裁きたくないといっても、そうしてしまう事がある。それが自分としては許せないのだ。今までさんざん、反応と行動の間にはスペースがあるといっておきながら、こういうことをかくのも気が引けるのだが、最近許せないのは自分自身の心の初動だ。行動なら自分で選択できるので、なんとかしているのだが、心の動きとなると話は別な気がする。最初の心の動きが自分にとってすごく嫌な動きになるときがある。それを次の瞬間に認識して、他の方法で捕らえようとレンズをかけて捕らえようとしている。反応を選択しようとしている事は、それはそれでいいと思うのだが、最初に変に思ってしまう、この心の初動というのか、それが僕は変えたくて仕方がない。

で、タイトルの「ゆるすということ」だが、「ゆるすということ」と言う本のなかでは、すべてを手放し、ゆるせば楽になると、すこし宗教的な感もあるが書いてあった。その本には「エゴ」の声に耳を傾けるな。ともある。「エゴ」の声というのは僕が今許したくない心の動きそのものなのである。この声をゆるしてしまってもよいのだろうか?「僕は僕であるから」という解釈で自分の心の動きを制限しないというのはよいものだろうか。かといって「ゆるす」という言葉を掲げて、自分の心の動きを変えてしまってよいものだろうか?今、自分としてはその動き自体認識して、裁かないようにしようとしているのだから、それはそれでよいような気もするが、最初から人を裁く心をもたないようになりたいものだ。

今の僕には、「常に裁かない」というのは無理なようだ。で、そんな僕を自分で許そうとするのだが、僕にはその「ゆるす」という事が自分から逃げているように思えてしまうのだ。この問題は簡単には変化はできないだろうが、少しずつ時間をかけて変化させていけば、変わっていけると信じている。僕が今できるのは逃げずに、今の自分を認識し、どちらへ変えていけばよいかをしっかり見極める事だと思う。

久々にquoteをひとつ紹介する。迷っているときにやけにならないで思いとどまらせてくれるようなquoteだ。

「どっちの道に進みたいのかわからなければ、どっちにいったって結果は同じさ。」(不思議の国のアリス)

【追記】全然関係ない事だが、今月は「読書強化月間」とした。目標も少し高めに設定してある。今は村山由佳著「君のためにできること」という小説を夜は読んでいる。朝読んでいる三国志のほうは今月中に8巻まで読了する予定である。

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