Wednesday, November 26, 2003

XV-th stone: 禅の心

--What I've thought--
先日、友人と紅葉を見に京都へ行った。赤や黄色に染まった楓が非常にきれいであった。平安の時代には紅葉は「黄葉」と書かれていたそうだ。和歌集などでもそう詠われているらしい。

今回、参拝した寺の中で、非常に印象に残ったのは龍安寺だ。京都市内の案内板には竜安寺とも書いてあった。
ここは言わずとも知れた石庭で有名だ。この石庭に10分ほどだっただろうか、何も言わずに座って眺めていたのだが、非常に興味深い事が起こった。京都のほかの石庭を以前見たとき(大河内山荘など)は、枯山水といわれるままに、水の流れ、水のせせらぐ音、その周りの音などが感じられたのだが、この龍安寺の石庭にはそれがなかったのだ。水の模様は岩の周りは同心円状に、あとの部分は横に平行な模様がつけてある。ただ自分が感じられないだけかもしれないが、僕にとっては本当に何も語りかけてこない石庭だったことは確かだ。そこに「ただ」存在するというか、動きや音が何も感じられない、「無」という感じであった。座っている自分自信も「無」になっていたような気がする。それを考えると「最後のひとつの岩は君の中にある」とういのもあながちわかるような気がする。

もうひとつ思ったのは、この石庭は室町時代の末期頃からあるそうだが、それだけの時代を感じさせなかった。白砂の模様は今でも手入れされているからかもしれないが、まったく古いとか新しいとかそういう次元では捕らえられなかった。メキシコ人が太平洋を「記憶の無い海」と呼ぶそうだが、それに煮たようなものでもあるのか。

もうひとつ、「吾唯足知」(われただたるをしる)という言葉をモチーフにしてある、つくばいがあった。つくばいとは石をくりぬいてそこに水をためておき、茶席などへの入り口で手を清めるものをいう。比較的高さが低いところに設置され、こしをかがめて、つくばって手をあらうところからこの名がついたそうだ。「吾唯足知」にはすべての感じに口が使われているため、この口を中心において上から「吾」、右に「唯」、下に「足」、左に「知」がデザインされていて、口の部分に水がたまるようになっていた。
「知足のものは貧しといえども富めり、不知足のものは富めりといえども貧し」という禅の教えをあらわしたものらしいが、
「吾、ただ足るをしる」とは究極の極みに達したときにしか言えない言葉ではなかろうか。したがってそれに向かって日々精進するのが禅の教えでもあるのか。

あと、源光庵というところにも立ち寄った。そこには「迷いの窓」と「悟りの窓」という物がある。「迷いの窓」は中央に四角に窓がきってあり、それを取り巻くように格子状の障子が左右に、上部は垂直の竹格子がある。対して「悟りの窓」は白い塗り壁の中央に丸い的がひとつきってあるだけである。ここにも10分程度座っていたのだが、迷いの窓を見ていたときは四角の窓、障子の格子、竹の格子などを転々と視線が移動し、あれやこれや考えることができた。が、しかし、悟りの窓を見ていたときは白い壁に丸い穴があり、その向こうに風景がある。その風景の存在感たるやすさまじいものであった。周りの白い壁もあってか、それが強調されていた。ごちゃごちゃ回りにあった「迷い」とは正反対に「悟り」では「それしかない」といった感であった。そこからもこれらの窓の名の由来が感じ取れる。


今回の京都は紅葉(黄葉)もさることながら、禅の教えに触れられた非常に有意義な旅であった。
今回感じた禅の教えを、「僕なり」にまとめてみよう。
「この世にはたくさんの事柄や教え、思想などが混沌とした状況で混在している。その中で一番大切なことだけを見つめるように常に心がけよ。大切な事を知れば、どんな苦境にあっても非常に幸せで平安でいられるであろう。いつまでもその大切なことを見つけるように努力せよ」
これをするためには俗世に存在する雑多なことを捨て「無」になることが効果的なのかもしれない、と今回の旅で思うことが出来た。

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