XI-th stone: getting back Pureness
--What I've thought--
人間は生れ落ちてから、数え切れないほどの出来事を経験するうちに物事に対する見方、以前IIIでは「レンズ」と書いたが、がどんどん構成されていく。これが強すぎるとバカの壁のようなものができてしまうように思う。また養老孟司 氏の「バカの壁」については読了しているのでいつか何か書きたい。
また、老婆と婦人の絵を出すが(これしかないのかといわれそうだが)、これはこの「レンズ」を体験するのにいい例である。
これでは、見る人がひとつの現象を異なった事実として捕らえている。これは単に事実だけではなく人がどう行動したかを見たときにも同じように当てはまる。
今回はこの心の純粋さについて書いてみたいとおもう。幼児を思ってみてほしい。幼児はよく、ささいな事で喧嘩するが、すぐ仲直りしてしまう。彼らは言葉の裏を読まないほど純粋なのだ。「ごめんなさい」と言うことですべてを許してしまうほど、この言葉が幼児たちにはストレートに吸収できるのだろう。
だんだん成長するにつれて、「人の心の動き」や「自分」といったものがわかってくる、レンズの形成だ。このレンズを通すことで「ごめんなさい」といった事実はそのままではなく、いろいろな形で吸収されることになる。このレンズはいったいどこからくるのだろうか?ではこれを取り外すためにはどうすればよいだろうか?
少なくとも、僕はこのようなレンズを通して物事を見るのは好きではない。常に取り除きたいとおもっている。幼児(子供)の純粋さをとどめたまま成長したいものだ。
芸術や音楽は大人でも子供の心のまま残せる領域である。というのを聞いたことがあるが、僕はこの言葉には賛成だが、足りないと思う。
僕の結論は、「自分」というものがどこまで固いかという点にある。このままでは意味不明かもしれない。うまく書き下せるかわからないが、詳しく説明してみる。人は成長するにつれて「自分とは何か」を形成していく。アイデンティティーの形成と言われるものだろう。通常の人はアイデンティティーは自分を限定するようなものになっていないだろうか。しかし、「自分」とはもっと精神的に深い存在なように僕は思う。僕はこの体で生まれてきて、「僕」という精神は生まれてからこの体に宿っている。この「僕」という体に宿っている「精神」こそが「自分」なのではないか。と最近は思っている。
変化を起こせないものもあるが、多くの場合、前回書いたように「自由意志」の力によって変更可能だとおもう。自分の性格、自分の心の動きのパターンの多くはレンズを変えたり、はずしたりすることで、どう感じるかも変わるし、どう反応するかも自分によって変えられるのだ。そう考えると、通常アイデンティティーを形成している多くのもの、ここでは上に書いたような自分の能力を限定してしまうようなもんだと仮定しているが、それは「自由意志」の力によって変えられるのだ。
この「自由意志」の力を備えた「僕」という体に宿った「精神」をアイデンティティーの要素の中心におけば、「自分」という物が非常に柔軟な物に変化するだろう。こんなことを書くと、すぐ心変わりをする自分のない人間じゃないか。といわれそうだが。自分のない人間とはなんだろうか?と逆に問いたい。そういった、よく心変わりをする、それを自分で選択するという心の動きが「その人」なのではないだろうか。
またの機会に書きたいと思っているが、7つの習慣によれば人間は「影響の輪」という物を持っている。これは自分が直接は変化を働きかけられる範囲を示している。自分と周りと人との人間関係が良好ならば、その人との関係も「影響の輪」に入れることができる。そして「自分」とはResponsibilityと自由意志(主体性)を発揮することによってすべてこの「影響の輪」の中に入っている。このことからもわかるように、人間というのは思ったほど硬くないように思える。人間は思ったよりもずっと柔軟なものなのだ。それには、このレンズの存在を実感し、自由意志の力を発揮しようと心がける事が非常によいと思う。
今回は、成長するにつれて数も多くなり、厚さも増してしまう「レンズ」について考えてみた。誰しもこのレンズは最初は持っていない状態で生まれてくるはずなのに、いつの間にかレンズが形成される。通常、この取り除くのが難しい「レンズ」が、なぜ取り除くのが難しいか。を考えてみた。
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