X-th stone: The Power of FREE WILL
--what I've thought--
今回はVII-stoneの最後で書いた、自分に対してのリーダーシップを発揮する原動力になっている「自由意志の力」について書こうとおもう。この自由意志にはもちろんResponsibilityという言葉について考えたときに書いた、「反応する能力」をも含む大きな意味がある。反応する能力を発揮するのもしないのも、自分自身なのだ。
この自由意志、というより自由意志という存在の認識は自己管理をするのにはとても役に立つとおもっている。それは自分で何をするかを決定し自分でその決定に従い行動する力である。周りの影響に影響されず自分で主体的に実行する能力のことだ。
自由意志とか主体的に実行するといって、何も大きな変化、決定をし続ける必要なない。人間は生まれてから数え切れないほどの選択、決定をする。大きさにかかわらずだ。そして、その決定のほとんどが小さなものであるといっていい。ほとんどの人は気づいていないかもしれないが、いつも何気なく行っている小さな日々の決定に自由意志や主体性を発揮すれば、おどろくほど大きな成長ができるだろう。
「自分で自分に約束をし、その約束を守る。」この一見単純そうに見える自分に対して誠実に生きる続ける事ができれば、III-th stoneで紹介した最後のquoteにあった「人生を刈り取る」ことができるのではないだろうか?
これを実行するためには非常に大きな自制の力が必要である。自分の価値観や自分の方向性に照らし合わせて、衝動や瞬間における欲望や感情ではなく、「イエス」「ノー」を自分に対して言える、そんな力が必要だ。それにはやはり自分がその選択をした場合を客観視し、自分がその反応(行動)をとったときに起こる結果や自分に対して誠実かどうかを判断し、それを考慮した上で行動すればいい。それがし続けることを私は目標としている。
だからといって、自分の価値観のそぐわないことに対してすぐ「ノー」を言えといっているのではない、それよりも燃えるような「イエス」をいえるような事項を自分の中に持つことが大切だと思う。その燃えるような「イエス」、すなわち自分の意思の固さ、または、その人にとっての重要さが、他の人に伝われば、「ノー」を言ったところで人間関係が悪くなることはないと私は信じている。
こんな面白い話が載っていたので紹介する。ある教授が授業であるとき生徒にこういわれた。
「授業を休ませてくれませんか。テニスの合宿に行かなくちゃならないんです」
「行かなければならないのか、それとも行きたいのか。どちらだね」
「いやぁ、本当に行かなければならないんです」
「行かなかったらどうなるんだい」
「行かなかったらチームからはずされます」
「その結果についてどう思うかい?」
「いやです」
「つまり、チームからはずされないという結果がほしいから、行くことにしようと思ってるんだね。では授業に出なかったらどういう結果になるとおもう?」
「わかりません」
「よく考えてごらん。授業に出なかったら自然の結果としてどうなるだろう」
「単位を落とされたりはしませんよね?」
「それは社会的な結果だね。人がつくるものだ。テニスのチームに参加しなければプレーができない。それは自然の結果だ。クラスにこなかったら、その自然の結果としてどうなるだろう。」
「学ぶ機会を失うでしょうね」
「そうだ。だからその結果と他の結果を比較して選択しなければならない。私だったらテニスの合宿に行くことを選択するだろうね。しかし、何事にもねばならないとは絶対にいわないでほしい」
「では、合宿に行くほうを選びます」
と彼はもじもじ答えた
「なんだって、私の授業を休むって?」
と冗談半分に私は言い返した。
このエピソードは先の自由意志の力を教授が導いた良い例である。この話の中の「何事もねばならないとはいわないでほしい」という一言に非常に僕は感銘をうけた。自分がどうしたいのか?自分の目的、目標のために何を選択するのがベストなのか。それを考えれば「ねばならない」とはいえなくなるだろう。
とにかく、人間には「反応する能力」があり「自由意志」が存在するのだ。どの道を選択するのも、苦境等にさらされたときどう反応するかも、自分で選択できるのだと実感できる。
何か、要点のまとまらない散文になってしまったが、ここで終わることにする。
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