XLVII-th stone: 信頼するということ、許すということ
すこし、久しぶりになる。最近、"信じること"について考えている。何を信じるかというのはいろいろあるのだが、特に"他人を信じる"ということについてだ。まず"信じる"ということはどういうことだろうか。正しい論証に基づく事実や科学的な定理は信じる信じないに関係なく無条件に正しい事柄だ。しかしこの論証というのは"Aは正しい”、”Aが正しいならば、Bも正しい"、だから”Bは正しい"という論理の鎖でできている(3段論法)。ということはこの鎖をどこまでもたどっていけば、ぐるぐる事実が循環しているかもしくは始まりがあるはずだ。
まず、この始まりがある時、その事実は論証なしで正しいと使われているはずだからこの事実はみんなが真実だと信じるしかない。こういうのを論理学的には"公理"という。この何の確証もない上でそれを事実と認めること、それを信じるというのではないだろうか?しかし、現象をいくつも観察したときに、論証はできないけれども、非常に"確からしい事実"というのもある。ダーウィンの進化論もそれにあたると思う。"ある種の競争の中で強いものが生き残っていく"という意見は今ではほぼ間違いないと思われているがこういうのは信じるというのだろうか。僕はこういうのを事実だろうと認めるとき"信じたい"と行った方が正しいのではないかと思う。こういう風に考えると人を人を信じるといわれる行為は"信じたい"という行為というふうにいえるのではないだろうか。自分がこの人のことを信頼しているというのは"この人は自分が苦難や困ったときに助けになる"という事実を信じたいと強く願っているということなのではないだろうか。
この意見をふまえて、"許すということ"について考えてみたいと思う。ここでの"許す"というのは法律をおかしたときにそれを免ずるとか、そういうたぐいのことではなくて、人が人の心を傷つけてしまったときの"許す"という行為のことを言っている。私はこの"許すということ"は"信じるたいとこと"と非常に深く関連していると思う。自分の心が傷つけられたと表現するときは多分、相手が自分の予想した行動とはかけ離れていた行為をしたことによって、自分が"信じたい"事実がゆらいだときではないだろうか。そんな時その人への信頼は大きく揺らぐのではないか。しかし、相手のその行為を"許す"という時、どんな心の動きがあるのだろうか。相手の本心は自分では決してわからないものの、やはり元々自分が"信じたい"と思っていた事実を否定せずにその心を貫き通そうと決意した時に"許し"という行為ができるのではないだろうか。”その人はこんなことはしないはずだ。少なくともこんなことをしたいと思ってしたのではないのだ"と自分が思い、"信じたい"と決心したときに"許し"がおこると私は思う。
では、この"信じたい"という決心できるかどうかに影響してくるのはなんだろうか?それは"信じたい"事実を裏付けるような小さな助けや思いやりの積み重ねだろうか。通常の場合はそうだと思うのだが、しかし積み重ねたものだとするとそれは崩れることもあるのだ。
いくら頑丈に積み重ねたとしても大きな衝撃があれば崩れてしまうのではないかと思う。でも、しかし、人は人を愛するとき、この相手を"信じたい"という思いはかげりを見せたり弱くなったりもするが、"信じたい"と思う心が折れないのではないだろうか。そう思える相手を本当に愛しているというのではないか。これを逆に考えると、自分が許されないだろうと思ったような過ちを犯し、相手が許してくれた時、大きな大きな相手の中の自分を"信じたい"と思ってくれる心に触れる。そんな心に触れたときに自分の中で相手の事を"信じたい"と思う気持ちが膨らむのではないだろうか。相手と話し合い、本心を知って相手の"信じたい"気持ちを理解したときにも、自分のなかの"信じたい"と思う気持ちが膨らむだろう。そしてだんだん相手の"信じたい"気持ちを裏切らないようになっていくのだろう。人間は過ちをおかすものなので、きっとまた相手の"信じたい"という気持ちを裏切ってしまうという事を繰り返すのだ。繰り返したときに萎えてしまわないほど堅い"信じたい"心のことをもしかしたら愛とよぶのだろうか。
なにかまとまらない文章だが、今の考えを素直に記しただけなのでよしとする。
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