XLVI-th stone: 何がどう見えるか?
以前(XXXVI-th stone)、経験主義について書いた。経験主義とは簡単に言うと、すべての考えや知識を感覚を通して得た経験に基づくことで導こうとする姿勢である。この姿勢に基づくと私たちは経験ゼロの状態で生まれてくるので、生まれたときには何もかかれていない(何も知らない)状態であって、外部からの刺激を感じることによって色々な知識を形成しているといわれる。また我々ができるのは知覚することだけであって、物自体を知覚することはできないという事も結論づけられている。この経験主義という物の考え方は17世紀から18世紀初頭に盛んに行われた。有名な人にロック、バークリ、ヒュームなどがいる。
時はすすみ18世紀になり、この考えを拡張した哲学者が現れた。かの有名なイマヌエル・カント(A.D.1724--1804)だ。彼は経験主義も合理主義もどちらも少しずつ間違っていると考えた。合理主義というのはあらゆる認識ははじめから意識の中にあるというものだ。つまりプラトンのイデア説を受ける物である。カントが指摘したのは、私たちが感覚を通して何かを経験するとき、感覚も理性もそれぞれ一役になっているという事だ。合理主義は理性に、経験主義は感覚を重視しすぎると言った。少し難しいが経験主義において人間は感覚を通してのみ知識を構築し得るのであるが、その感覚をどのように把握するかは曖昧であった。カントも知識は感覚をとおした経験からやってくると考えたが、感覚をどのように把握するかを決める前提条件は僕たちの中の理性(=論理的な思考をする心)の中に最初からあるとした点で合理主義的な立場を取っている。この前提条件というのは世界のとらえ方を左右する制約のようなものである。カントは人間に感覚が入力されるときに、人は自然にサングラスを通して世界を見ているときのように、何らかのレンズ(フィルター)を通して知識に変えているというのだ。簡単に言うと赤いサングラスをかけて世界が赤く見えるからと言って世界は赤いわけではないのだ。カントは知識は経験から生成されるのだが、人間は生まれながらにこのような感覚に対するフィルターのようなものを持っていると言うことを指摘したのだ。彼は人間は何を見ても"時間"と"空間"の中に現れた物として受け止めておりこれを"直感の形式"と呼んだ。この2つの意識はあらゆる経験より前に存在する(アプリオリ)と言っている。私たちは何かを経験する以前から時間と空間という形式(フォーム)をもっているというのだ。しかしカントがこの"直感の形式"と読んだものは人間の意識の特性であって世界の特性では無いと言った。水をグラスに入れれば水はグラスの形に変わるように、いろいろな感覚はこれらの形式によって受け入れられるのだ。
まとめて言えば、経験主義では”世界は経験できない”と言われていたのだが、私たちは確かに世界を知覚できる。この一見矛盾したように聞こえるところに新しい見解を導入したのだ。”世界そのもの”と”我々にとっての世界”というのを明確に区別したのだ。カントによれば”世界そのもの”はやはり知覚できない。しかし人間は共通の"直感の形式"というのを持っており”我々にとっての世界”はいちいち経験しなくてもどう受け止められるかはいえるということだ。カントにしてみれば、ヒュームの言った因果律などの自然法則は知覚も証明もできないといった事をとんでもないと思ったわけだ。彼はこの因果律というのは世界の特性ではなく人間の思考の特性だとしたことで人間の意識が空っぽなんかではないということを指摘したのだった。経験主義では”何が見えるか?”を議論したのに対してして、カントは”何がどう見えるか?”を議論したという事になる。
(因果律は証明できない(ヒューム):ビリヤードの玉Aがもう一つの静止している玉Bに衝突した所を経験したら人間は玉Bが動いた原因として玉Aの衝突を認識するだろうが、このとき知覚したのは"玉Aが玉Bに衝突した"という所と"玉Bが動いた"という2つの現象を知覚したにすぎなく、玉Aが直接の原因だとは経験だけでは証明できない。と、ヒュームは言った。)
カントは人間は感覚を通して地の素材を手に入れて、それらは理性によって色づけされると言った。そこで、”世界はどうしてできたのか?”といったような理性が加工する感覚の素材が全く持って無いような事を問る場合、理性は空回りし、その結果正反対などちらもありそうな結果にたどり着くというのだ。たとえば”神は存在するのか?”を問うてみても結局存在しそうであるし、存在していなさそうであるという結論に達するということだ。
この記事はすべて「 "ソフィーの世界(上) 普及版" ヨースタイン・ゴルデル著 須田 朗監修 池田香代子訳 NHK出版」を基にしているが、その中にこんな言葉があった。
"もしも人間の脳が私たちに理解できるほど単純だったら、私たちはいつまでたっても愚かでその事を理解しないだろう"非常に的を得た言葉だと思う。私たちは”自分自身が何者なのか”という問いに答えられるという事はほとんど望めないほど複雑であるのかもしれない。今度は、この後に現れるロマン主義からヘーゲルの構築した理性の発展の法則について触れたい。
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