Thursday, February 16, 2006

XC-th stone: 言葉にされない思い

ボクが使っている手帳の今日のページにこんな一言が。

「言葉にされた思いより、言葉にされていない思いの方が価値がある」ゾナ・ゲール

印刷されて残るほどの言葉だから、多くの人が共感するのだろうが、ボクはこの言葉に普通の人では感じないであろう違和感を覚える。この言葉、わからないでもないのだが、この言葉を読むと以下のような気持ちがわき上がってくるのを堪えられない。

「思いは言葉にしないと伝わらない」

「言葉に表さない思い」非常に聞こえは奇麗だと思う。素敵だとおもう。が、しかし、伝えたい思いは言葉にしなければ伝わらないのだ。

自分が思っている事を言葉に伝えずに行動で示す時の事を考えよう。例はそう、恋愛の駆け引きのようなものでいい。言葉にしない思い、それは相手にとっては最初の内は「そうかな?」「そうなのかな?」であり、確信にどこまで近づいたとしても、それは「『きっと』そうなんだ。」という気持ちどまりじゃないだろうか。それを自分で信じる事はできる。自分でそれを真実だと信じ、行動することはできる。ボクの場合は、そう信じていても、どうしても不安や疑念は取り去れない。そんな時、「ホントはどーなの!?」と聞きたくなる。しかし相手は言葉にしない以上、暗にボクに伝えている「言葉にはしないよ」というメッセージなのかなと思う。そして、ここでもその「言葉にはしないよ」というのはボクの予想であって確信はないのだ。だから、「伝えたい思いは言葉にするべき」というのがボクの意見だ。恋人同士ならなおさら「伝える」という事は重要じゃないかと思う。

じゃぁ、ゲールの言葉にある「言葉にされない思い」というのはどういう物なのだろう。言葉にされないというのはいろんな場合があるだろう。が、しかしそれはすべて伝える側の人が「言葉にしない」という選択をしている結果である。そしてその人は多分「伝えたいのだが、相手自信でそれに気づいてほしい」と思っているのではないだろうか。もしくは、「気づいてもらわなくて良い、私がそうしたいのだから」という風に思っているのではないだろうか。どちらにしろ、伝わらないのだ。相手が気づくしかない。そして相手が気づいたとしてもそれは確信には決してならない。と思う。

要するに

「思いを確実に伝えるには言葉にしないとムリ!」

と言いたい。

ボクの今までの議論はちょっと論点がずれていて、「思いを言葉にする行為」と「思いを言葉にしない行為」を比較してみた。ゲールの言葉は「言葉にされない『思い』の方が価値がある」といっている。

意図的にボクが論点を行為にShiftしたのだが、なぜならば、この『思い』の比較はボクには難しすぎるから。そして今のボクには『思い』の比較は不可能であるから。言葉にするしないは以上からもわかるように、ボクはその人の選択だと思っている。そしてその人、その人の『思い』は比較などは到底不可能だと思う。

「その人の感じる心の重さはその人以外の人には絶対にわからない」

という言葉をボクが信じている以上、人の思いの強さも価値も比較不能だ。どんな人のどんな思いもかけがえの無い一人の人間に宿った素敵な『思い』なのだから。

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