LXXXIX-th stone: 河原温「date painting」のすごさ
これは私が参加しているmixi内の「河原温」コミュニティでコメントしていただきながら自分の考えをまとめた物である。
まず、河原温氏を紹介しておこう。私の生まれた街である名古屋市の生まれで現代美術の中でも概念芸術(conceptual art)という分野の第一人者である。代表的な作品として名高いのが今回題目になっている「date painting」と呼ばれる作品(写真参照)だ。名古屋市美術館にも彼の作品が何点か所蔵されている。もう一つ有名なのが"I'm Alive."のシリーズである。彼が世界中を旅する間、自分の友人宛に"I'm Alive."というメッセージだけが書かれたポストカードを送るという作品というか行為である。この行為によって生まれたポストカードは一同に集められ展示される事がある。私も去年豊田市美術館で行われた河原温展でそれを見る機会があった。
さて、今回はdate painting、日本語では「日付絵画」などと呼ばれているものだ。私が初めて河原温さんのdate paintingを見たのは数年前に 名古屋市美術館だった。最初みた時は 「なんだこれは?ただ日付だけが書いてあるだけだ。」ぐらいの印象 だった。しかし何げなく気になってインターネットで調べた時に衝撃が走った事を今でも覚えている。インターネットには"One Million Years" という作品の事が書かれていた。この作品は分厚い本にただただ年号がずらずら書かれているだけだというのだ。それを知ったときは、私が 「彼は時を描こうとしているんだ!」という風に理解した瞬間だった。
これまで、いろいろな芸術家が風景や人物や様々な眼に映る物をキャンバスに写し取ってきた。風景、人物、静物などなど。それは時という普遍的な流れにあらがって、どうにかして時を止めようという試みではないかとも受け取れる。しかし、キャンバスである以上、そこには境界線があり、風景や人物、ありとあらゆるものが、その広さで切り取られ、キャンバスの境界線の外側は全く時間に支配され、流れてしまっている。そう考えると、その瞬間のその限られた空間を切り取り、写し取ってきたのがこれまでの絵画ではなかったのではなかろうか
date paintingのすごいところは、この私たちの周りに普遍に流れ続ける「時」を止める唯一の物が「暦(日付)」であるという事を私たちに投げかけると同時に、この私達の周りで流れている1日、いや全地球、全宇宙で流れている1日と時間をまるごと、小さなのキャンバスに閉じ込めてしまった事にあると私は思う。date paintingに使用されているキャンバスはあまり大きいものは私はしらないのでだが、1日という時の流れの中で起こった事すべてが描かれているという点で、私はこれ以上大きいキャンバスはありえないと思うのだ。この作品を納める箱の内側にはその日の新聞を貼付けてあるとういう事であるが、これを考えると、この理由も奇麗に納得できるのではないだろうか。
そしてもう一つ。これまでのキャンバスに写し取られていたのが一瞬であったのに対して、date paintingでは1日という「流れている時」そのものが写し取られているという点だ。これはきっと、"One Million Years"へと繋がっていっているんだと考えられる。
私が彼の作品を初めて見て、上のような意味を感じた時から、彼はボクを魅了して止まない。「時」自体を描き、一日というスパンで起こっている、この世のすべてをあれだけの小さいキャンバスに描く事に成功したのだ。キャンバスというこの空間は、宇宙からみたら、ほんの星屑の中の星屑にも満たない一部分しか占める事の無い小さなものだ。そんなキャンバスが、この宇宙全体の1日を覆い尽くしているのだ。 これはアリストテレス達の時代からの問である 「部分は全体よりも小さいのか?」という問が真である一つの答えと見る事もできるのではないのだろうか。もっとも集合論的な意味では部分は全体よりも小さくはない事は数学的に証明されているのだが。
「日付」をキャンバスに描く。たったこれだけの作業でこんな大きなことが可能となる。それを気づき、また私たちに気づかせてくれるのがdate paintingのすごさであると私は感じている。
もう一つ、私には引っかかることがあった。以降の議論はmixi内で他の識者の方からコメントを頂いて考察したものだ。
このdate paintingはその描かれた日付のその日に製作されると言う点だ。また作者である河原温氏はこれを作成しはじめた1966年以降、そのルールをstrictに守り続けている。これはいったいどういう意味を持つのだろうか?
このdate paintingの目的が私が上で考察した事のようであるならが「キャンバスに書かれた日付」に意味があるのであって、「制作された時点」というのは大きな意味を持たないと私は考えていたのだ。 それ以上に「日付」を描く事で時の流れを止め「時」自体を記録できるという事をpureに訴えるならば、それは逆に邪魔になるとさえ思っていたのだ。
しかし他の方のコメントにより私は次のような結論を得た。
「一日というスパンの中で今日はこの日しかない」という事実。
このdate paintingの製作自体が彼自身へのこの事実の戒めとなっていたのだ。この「戒め」というのは、その日にその日付を描くという事が 「今日(その日付の日)という日はいまこの日しかありえない。」 という事を強調、いや、むしろ制作者自身が強く認識する作業だという事だ。
そう考えるならば、河原温氏にとってdate paintingを描く時、それは、それを描く日の内にその日付を描かなくては行けない。という理解に繋がる事ができる。 それによって、date paintingが描かれた日に規則性がないのも納得のいく理由付けが可能となる。彼がそれを自分で強く認識したい、もしくはするべきだという状況になったときに描いたのではなかろうか。 date paintingの中でも大きなサイズとして有名なベトナム戦争の日付のpaintingなどはまさにそのいい例だといえるだろう。
date painting。「日付」だけをキャンバスに描く事によって、時を止め一日の全事象を一枚のキャンバスにとどめると共に、今日というその日がどれだけはかなく、貴重な者であるかを私たちに教えてくれる。そんなパワーがこのdate paintingのすごさではないのだろうか。
彼の作品に対する解説は非常に少ないく、この記事は私の私見としてとどめておいて頂きたいという点を注意しておく。
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