Sunday, October 03, 2004

IL-th stone: 思想の発展の歴史

本日はゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリッヒ・ヘーゲル(A.D.1770--1831)の話を書く。彼はこれまでの哲学者と比べて異質な哲学者である。彼以前の哲学者は人間は世界について何を知る事ができるのか。もしくは永遠に通用する真実とはなにか。を追い求めていた。が、ヘーゲルは人間の認識基盤は歴史によって変化するため、人間の認識は基盤にできるに値せず、歴史のみである。と考え、歴史上の思想の発展の歴史に焦点をあて、人類の思想の発展のパターンを構築した。

カントは"もの自体は認識できない”と言ったが、これはもの自体の存在を否定しているわけではない。同じように真理も認識できないだけで存在を否定しはいない。が、ヘーゲルはこれを否定し結局"真理は人間の理性の上にある”と考えた。そしてヘーゲルは人間の認識基盤は時とともに変化すると考えた。だから永遠の理性も永遠の真理も見つかりっこない。ただ確かなのは今より前におこった歴史だけだ。と考えたのだった。

ヘーゲルは歴史は川の流れのようなものだと考えた。どこのどんな小さな水の流れにも上流の滝や渦の流れが影響している。が、しかし今の流れを決めているのはその人自身だ。思想も同じでその時代時代で必ず以前の時代の考え方や思想が反映されている。そしてその時代の環境に影響されてその時代の思想を決定している。だから、ある考えが永遠に正しいなんてありえない。ただ今の時代に正しいと思えるだけだ。例えば、現代奴隷制に賛成したら、他の人から失笑されるだけだろうが、2500年前だったらどうだっただろう。

こんなふうに、理性(思想)の歴史はダイナミックなプロセスだとヘーゲルは言う。なにが正しくて何が正しくないのか決定する基準は歴史の外にはないので、この歴史のプロセスこそが真理だとヘーゲルは指摘したのだった。古代や中世からいろいろな思想を引っ張りだしてきてこれは正しいとか、これは正しくないなんて言えない。そんな事は歴史を無視した考え方なのだ。しかし歴史のコンテキストから切り離せないとはいっても、歴史にはもう一つの面があるとヘーゲルはいった。それは人間の理性は発展的で、認識はたえず広がり、進歩しているという事だ。

歴史は長い思考の鎖だ。ヘーゲルはこの鎖は発展的だといったが、そこに一つの法則を見いだした。新しい思考はそれより前の思考をふまえて立ち上がる。しかし新しい思考が立ち上がるとかならず、新しい思考の反論をうける。すると2つの対立する思考が張り合う。そしてこの緊張が2つの思考のよいところをとって第3の新しい思考が出来上がる事によって解かれるというのだ。これを彼は"弁証法"敵発展と読んだ。簡単な例をあげると、古代の例だが、エレア派は何かが変化するなどあり得ないと主張した、見た目が変化しても決して変化などはしていないと。これをヘーゲルは”肯定”とよんだ。一方”万物は流転する”というヘラクレイトスの哲学は真っ向から対立するものであり、これを"否定"とよんだ。この2つの対立する考えの橋渡しをしたエンペドクレすの思考"元素はたった一つではない。組み合わせはかわるけれども元素はかわらない”を"否定の否定"と名付けた。

ヘーゲルはこの3つの段階を"定立(テーゼ)","反定立(アンチテーゼ)","総合(ジンテーゼ)"とも言い表している。かれは歴史に対してこの理性のパターンを押し付けたのではない。彼は歴史そのものからこういうパターンが浮かび上がっているといったのだ。これが理性の発展の法則だと。

私たちの意見の議論の間にもこれはみられる。議論するとき考え方がよくぶつかる。しかしどちらかが全面的に間違っているということは少ないだろう。たぶんどちらもある点で正しく、ある点で正しくないだろう。もしも議論がうまく運べば、お互いの意見のお互いいいところがはっきりしてきて、新しくその時点で正しいと思われるものが生き残るだろう。歴史的にみれば生き残ったものがその時点では正しかったとしてもよいかもしれない。

1 Comments:

Blogger b997031 said...

風の便り氏のリンクから来ました。哲学書からは最近ちょっと離れているのですけれども、元哲学青年のオッサンとして少しコメントさせて下さい。

>>ある考えが永遠に正しいなんてありえない。ただ今の時代に正しいと思えるだけだ。例えば、現代奴隷制に賛成したら、他の人から失笑されるだけだろうが、2500年前だったらどうだっただろう。

奴隷と家畜は用途が違うだけだってアリストテレスが言ってますね。

>>ヘーゲルはこの3つの段階を"定立(テーゼ)","反定立(アンチテーゼ)","総合(ジンテーゼ)"とも言い表している。

この「定立‐反定立‐総合」という術語、哲学史の教科書なんかにもまことしやかに書いてあるんですが、実はこの用語、ヘーゲルその人の実際の著作の中には出てこないんですね。
「定立‐反定立‐総合」はもともとフィヒテの用いた概念で、それを誰かがヘーゲル弁証法の説明に便宜的に流用したのが、いつの間にかヘーゲル自身の術語と誤解されて現在に至っているようなのです。
実際にヘーゲルが著作の中で用いているのは即自(an sich)‐対自(für sich)‐即自かつ対自(an und für sich)という三組法です。サルトルが即自存在とか対自存在とかいう言葉を使っていますが、あれはヘーゲルからの借用です。
日本の代表的なヘーゲル学者に加藤尚武というひとがいて、この加藤先生がよく著書の中で、いま述べた術語の混乱について指摘しておられますので、機会があったら書店で立ち読みでもされてみて下さい。

これは私の解釈ですが、ヘーゲルというひとは認識の問題を考えるにあたって、主体なり客体なりを予め抽象的に措定した上で両者の関係をあれこれ考えてゆくのではなく、認識をあくまで人間の具体的な経験の所産として考えようとした点に独創性があるのではないかと思います。
真理とは人間の「精神」から主体的に産出されるものであるという考え方です。ヘーゲルの「精神」は時代精神・民族精神などとして歴史的な拡がりを有しますが、その「認識基盤は時とともに変化」し「永遠の理性も永遠の真理も見つかりっこない」。その中にあって、認識を産み出し続ける「精神」の運動のみが絶対的なものであって、これを自覚にもたらすのが哲学的な「絶対知」であるということになります。

2:28 PM  

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