Saturday, November 29, 2003

XIX-th stone: 21世紀の社会

今日、ひょんな事から、05年に開催される愛知万博に興味をもった。以前愛知万博の検討委員会の会長でもある谷岡郁子先生のリーダーシップ論という講義を聴いたときにいろいろ話は聞いていたので今まで興味がなかったわけではなかった。改めて興味を持つ事ができたという感じだ。愛知万博のテーマは「愛、地球博」となっているが、もうひとつ重要なテーマなのが谷岡先生も強くおっしゃっていた「市民博」であるという事である。谷岡先生は21世紀は「市民の時代」とおっしゃっていた。僕も、これからの新しい100年について考えてみた。

今、現在われわれは21世紀の夜明けにいきている。もう3年という見方もあるだろうが、私はまだ3年と言う見方の方が好きだ。 19世紀、20世紀、そして21世紀と時は流れてきたわけだが、各世紀を動かす原動力となったのは何だったのだろうか。19世紀のそれは「国家」であった。19世紀後半には日本でも明治維新が起き、そのころには「日本」という国を作ろうという活動家たちがさかんに国際関係を広げようとしていた時代だった。そして20世紀。この世紀が始まって50年は戦争の世紀といっても過言ではないだろう。日露戦争で始まり、第一次世界大戦、第二次世界大戦と半世紀は世界中で戦争が行われていた。しかし後半の半世紀の世界大戦からの復興は日本だけではなく目覚しいものがあった。その中で活躍したのは19世紀に確立した「国」ではなく、そのなかにある「企業」あるいは「産業」ではなかったか。経済の及ぶ範囲も爆発的に拡大し、世界を動かしてきたのは経済であり企業であったのではないだろうか。そして、20世紀を終え21世紀の3年目も終わろうとしている今、もちろん「国」「企業・経済」が世界を動かしている事に異論はないのだが、新しい要素「市民団体」と呼ばれるものの存在がやはり目立ってきていると思う。NGO・NPOなどの団体も規模は大きいがその一種だと考えら得る。。「多様な価値観に生きる人々が、お互いが中心である、ということを認めあいながら社会に対して何かを発信していこう」というスタイルの人々が増えてきているのだと思う。

そこで、社会や、企業といった「組織の構造」について考えた事を思い出した。
以前NHKで「変革の世紀」というスペシャル番組が合った。そこで「21世紀の組織改革」という特集があった。非常に興味深かったので、僕の思った事と混ぜて紹介する。これまでの組織の形態は、大量生産方式で大成功を収めたフォードが初めて企業に適用したトップダウン方式だろう。常に上の階層にいるものが意思決定をしそれを下層のものに伝えてゆき、最下層の人間は言われた事を実行するというタイプの組織構造だ。この組織スタイルはフォード以降、様様な産業や企業においての組織モデルとなった。しかし、今日このトップダウン方式では集団の構成員の活力は上がらず、企業において利益の追求という目的の元でも抜本的な改革を迫られているのが現実だと思う。

そこで21世紀の組織のありかたとして提案されていたのが「個人や小規模な集団が主体的にネットワークに参加する中で、多くの異なった関係や情報がうまく活用され成功をうむ、そんな、相互に作用し合うネットワーク型の組織」があげられていた。いたるところに活動の中心があり、その活動(渦)が互いに影響しあって大きな渦へと発展していく。そんな社会である。

企業という組織として、この形態を取っている例としてバックマン・ラボラトリーズ社(従業員1300人、世界21カ国に拠点を持つ化学材料開発メーカー)があがっていた。この会社では社員は固定の部署などの配属先をもたないそうだ。各個人は各国にちらばるネット上のフォーラムにアクセスし、同じような意識をもつ社員らと自発的なプロジェクトを立ち上げ、問題を解決していくそうだ。能力がありさえすれば、自分はいくつものプロジェクトに参加することもできる。あるプロジェクトで働いている間も、他のプロジェクトの情報は共有でき問題点の早期解決にもつながる。こうして人々が時間や空間を越えて知識や問題を共有できれば、より多くの成果を期待できるだろう。今までのように知識を所有するという事が非常に稚拙に思えてこないだろうか。

問題なのは目的意識の共有なのかもしれない。もし、組織の構造が固定されていたとすると、目的意識の共有が困難になる。その結果、変化しない道を選ぶという事が往々にしておこるだろう。逆に目的意識が固定されていれば、その組織のスタイルは固まっていくのではないだろうか。しかし目的意識というのは問題を解決するごとに変化するのが普通だと思われる。そうなると組織の構造は変化して当然であろう。

21世紀。始まって3年が経とうとしている。これからの時代は、私は「いたるところに活動の渦がある」ような社会になっていくのだろうか。僕も社会の構造にしても企業の構造にしても、こうなったらいいなと思っている。その点で社会の渦となりうる市民活動を支える愛知万博は非常に有意義な機会だと思える。僕もこの万博に何か貢献できたらと思った。

Friday, November 28, 2003

XVIII-th stone: 冬のきざし(鍋)

最近、非常に寒くなってきた。僕の周りのイチョウも8割がた散ってしまっている。時折木枯らしのような風も吹き、町ではマフラーやコートを見につけた人が目に付くようになって、本格的な冬到来という気分である。自分の部屋のストーブをつけたとき、毛布を出したとき、どこかかしこで冬を感じる。寒いけど、どこかうれしい。雪景色がちかづいてくるからだろうか?

前置きはここまでにして、今日は「鍋」です。研究室で「鍋会」ってことです。
なんか肉が足りなさそうな感じがするんですが。大丈夫だろうか?

update info

研究室の友人がweblogをはじめたのでリンクに追加。
edgar davidsが大好きでFreeBSDフリークなweblogです。
その名は「davilog」。なかなかいい名前だと思う。響きが非常に素直だと思う。ちなみに、このサイトもblogger.comで作成されている。

今までつけていたカウンタがリロードでも回ってしまう、出来の悪いものだったため別のものに変更。SITEMETERというところのものを採用。無料でリロードなどではカウンタが増えないようにできた。

最近の記事のタイトルだけ横に並べてみたが、その記事へのリンクがうまくできない。bloggerのTemplateともうしばらく格闘することにする。今のところタイトルが羅列してあるだけでその記事へリンクできない状態である。きちんとダイジェストを作るなら3columnのスタイルにしたほうが良いだろう。それは今後のダイジェストの作成進行状況によるが。

XVII-th stone: 無題

--What happend today--
たった今、昨日購入した小説を読了。自分の好みのエンディングじゃなくて、かなり気分がわるい。
途中まで、かなり好印象な展開だったのだが、最後の最後の土壇場で急展開。
好きな作家の作品だっただけに、ちょっとまってよ。という感じ。
ちなみに、村山由佳著「夜明けまで1マイル」という小説。もし読んだ方がいたらコメントをおねがいします。
明日また気分治しになにか本を探しに行くことにしよう。なんとなく、どこまでもまっすぐで純粋な恋愛小説が読みたい気分だ。

Thursday, November 27, 2003

XVI-th stone: 夢

--What happend today--
今日、とても変な夢をみた。 僕はビルの3階か4階ほどの窓際にたって、外を見ている。なぜ外をみていたのかは全くおぼえていないが、とにかく立って外をみていた。外の天気は曇り。その時、雲の間から巨大な岩、ちょうどマグリッドの絵(岩がそらに浮いてる絵)にあるような(タイトル忘れた)、が雲間からゆっくりゆっくり出現。そしてそのまま下へ落下。家を直撃してその民家は崩壊した。そこへ数人友達が現れたような記憶があるが、そこで夢は終了した。

「夢分析」と検索エンジンで打ってみたところ面白いページがあった。
http://www.mmjp.or.jp/slow-do/dream/index-b.htmというページがヒットした。
このページの中に「家」は自分を表すという記述があった。そこから推測すると自分は今崩壊しかけているのか。とも受け取れる。今年は修士論文を書かなくてはならない年だが、進行状況がイマイチであるので、あたっているかもしれない。

雷が近くに落ちる夢というのもあったが、似ているのかどうか判断できない。雷はひらめきや何か大切な事を思い出したり した時に見る夢だそうだ。巨大な岩とはあまり相関はなさそうだった。巨大な岩が何をしめしているのかわからないが、なんとも良い気分じゃないことは確かだ。

今日は、やることだけやって、昨日買った本でも読むことにしよう。

Wednesday, November 26, 2003

XV-th stone: 禅の心

--What I've thought--
先日、友人と紅葉を見に京都へ行った。赤や黄色に染まった楓が非常にきれいであった。平安の時代には紅葉は「黄葉」と書かれていたそうだ。和歌集などでもそう詠われているらしい。

今回、参拝した寺の中で、非常に印象に残ったのは龍安寺だ。京都市内の案内板には竜安寺とも書いてあった。
ここは言わずとも知れた石庭で有名だ。この石庭に10分ほどだっただろうか、何も言わずに座って眺めていたのだが、非常に興味深い事が起こった。京都のほかの石庭を以前見たとき(大河内山荘など)は、枯山水といわれるままに、水の流れ、水のせせらぐ音、その周りの音などが感じられたのだが、この龍安寺の石庭にはそれがなかったのだ。水の模様は岩の周りは同心円状に、あとの部分は横に平行な模様がつけてある。ただ自分が感じられないだけかもしれないが、僕にとっては本当に何も語りかけてこない石庭だったことは確かだ。そこに「ただ」存在するというか、動きや音が何も感じられない、「無」という感じであった。座っている自分自信も「無」になっていたような気がする。それを考えると「最後のひとつの岩は君の中にある」とういのもあながちわかるような気がする。

もうひとつ思ったのは、この石庭は室町時代の末期頃からあるそうだが、それだけの時代を感じさせなかった。白砂の模様は今でも手入れされているからかもしれないが、まったく古いとか新しいとかそういう次元では捕らえられなかった。メキシコ人が太平洋を「記憶の無い海」と呼ぶそうだが、それに煮たようなものでもあるのか。

もうひとつ、「吾唯足知」(われただたるをしる)という言葉をモチーフにしてある、つくばいがあった。つくばいとは石をくりぬいてそこに水をためておき、茶席などへの入り口で手を清めるものをいう。比較的高さが低いところに設置され、こしをかがめて、つくばって手をあらうところからこの名がついたそうだ。「吾唯足知」にはすべての感じに口が使われているため、この口を中心において上から「吾」、右に「唯」、下に「足」、左に「知」がデザインされていて、口の部分に水がたまるようになっていた。
「知足のものは貧しといえども富めり、不知足のものは富めりといえども貧し」という禅の教えをあらわしたものらしいが、
「吾、ただ足るをしる」とは究極の極みに達したときにしか言えない言葉ではなかろうか。したがってそれに向かって日々精進するのが禅の教えでもあるのか。

あと、源光庵というところにも立ち寄った。そこには「迷いの窓」と「悟りの窓」という物がある。「迷いの窓」は中央に四角に窓がきってあり、それを取り巻くように格子状の障子が左右に、上部は垂直の竹格子がある。対して「悟りの窓」は白い塗り壁の中央に丸い的がひとつきってあるだけである。ここにも10分程度座っていたのだが、迷いの窓を見ていたときは四角の窓、障子の格子、竹の格子などを転々と視線が移動し、あれやこれや考えることができた。が、しかし、悟りの窓を見ていたときは白い壁に丸い穴があり、その向こうに風景がある。その風景の存在感たるやすさまじいものであった。周りの白い壁もあってか、それが強調されていた。ごちゃごちゃ回りにあった「迷い」とは正反対に「悟り」では「それしかない」といった感であった。そこからもこれらの窓の名の由来が感じ取れる。


今回の京都は紅葉(黄葉)もさることながら、禅の教えに触れられた非常に有意義な旅であった。
今回感じた禅の教えを、「僕なり」にまとめてみよう。
「この世にはたくさんの事柄や教え、思想などが混沌とした状況で混在している。その中で一番大切なことだけを見つめるように常に心がけよ。大切な事を知れば、どんな苦境にあっても非常に幸せで平安でいられるであろう。いつまでもその大切なことを見つけるように努力せよ」
これをするためには俗世に存在する雑多なことを捨て「無」になることが効果的なのかもしれない、と今回の旅で思うことが出来た。

XIV-th stone: 抱きしめたい

大分、久々になってしまったが、非常に気に入った詩を発見したので、掲載する。

「抱きしめたい」 作詩・作曲 桜井和寿 歌 Mr.Children
出会った日と 同じように
霧雨けむる 静かな夜
目を閉じれば 浮かんでくる
あの日のままの二人
人並みで溢れた 街のショウウィンドウ
見とれた君が ふいに つまずいた その時
受け止めた 両手のぬくもりが 今でも
抱きしめたい 溢れるほどの
想いが こぼれてしまう前に
二人だけの 夢を胸に 歩いてゆこう
終わった恋の心の傷跡は 僕にあずけて

キャンドルを 灯すように
そっと二人 育ててきた
形のない この想いは 今はもう 消えはしない
震えそうな夜に 声をひそめ 君と
指切りした あの約束 忘れてやしないよ
心配しないで 君だけを 見ている
もしも 君が 泣きたい位に
傷つき 肩を落とす時には
誰よりも素敵な 笑顔を 探しに行こう
全てのことを 受け止めて行きたい
ずっと二人で

抱きしめたい 溢れるほどに
君への想いが 込みあげてく
どんな時も 君と肩をならべて
歩いてゆける Wow Wow
もしも 君が さみしい時には
いつも 僕が そばにいるから

Tuesday, November 04, 2003

XIII-th stone: 窓

「窓」。ほとんどどんな建物にでもあって、普段僕たちがほとんど気にしていない物のひとつではないだろうか?でも、窓について改めて考えてみるといろいろ面白いんじゃないだろうか。

通常、どんな建物も壁で覆われている。その壁は建築物の内側という閉ざされた空間と開放された外の空間を分離し、その建築物の内側の空間に意味をもたせるというか、そういうものだと思う。窓というのはその壁にぽっかりあいた穴のことで、分離しているはずの壁に穴を開けて「内」と「外」をつないでいる。分離している壁の中にその分離を破る要素として窓があるのだ。正反対の力を持ったものが同じ場所におかれることによって非常に大きなエネルギーというかパワーを感じないだろうか。それだけで窓について考える理由としては十分すぎると僕には思える。

窓はいったいどこからきて、今までどんな変化を遂げ、どんな風に進化していくのだろうか。現在の建築では前面ガラスになっているようなものもあるが、もともと空間を分離するはずだった壁を全面窓にしてしまうといった。窓による壁の吸収のようなデザインも数多く存在している。この理由として考えらえられる事として、壁という物は明確に分離してしまうことになっているが、ガラスのような透明な素材の出現によって、壁ほどではない「弱い分離」という芸当が可能になったからではないだろうか?しかも現代建築の巨匠ル・コルビジェが言っているように、「建築の歴史は光明を求める苦闘の歴史であり、窓に対する改造の歴史であった」ということであろう。これまでの建築は壁という物で分離された空間にいかに外との一体感、光などを内側へいかに伝えるかだったのだろう。
そうすると、やはり原点というべきか、「窓」とはもともと何をするために生まれてきたのか?という疑問が浮かんでくる。光を取り入れるための穴だったのだろうか?

日向進氏によれば、英語のWindowという単語には「Window=Wind(風)+ou(目)=風の目」に原意があるそうだ。西洋の建築は昔はほとんどレンガや石であり、自然の風というのはほとんどはいらなかったようだ。そこで、壁に穴をあけて通風、換気が行われたというのだ。しかし日本の「まど」というのは「間戸」あるいは「間処」が語源であるという。日本や中国の建築における窓は木材を組み合わせ骨組みを作り、もともと穴(窓)だらけのところをいかにしてふさぐかということによって作り出されたものなのだ。
この2つを知ると、西洋の古い建築はレンガなどに穴を開けるため縦長の窓が多く、日本建築では梁の間を窓にするから横長の窓が多く見られるのも納得できる。

窓による外と内のつなぎ方も非常に興味深くないだろうか。窓にはいろいろな形、大きさ素材がある。上でも述べたが現代建築の中には窓が壁を吸収して外と内との分離感を非常に弱め、単に空気と風を分離しているだけなので、非常に外と内の一体感が高い。建築として成り立っているにもかかわらず、外と内の分離感はほとんどなく、むしろ開放感のほうが高いといってよい。小さい窓でもいいところはある。時として内から外を見たとき窓によって外側の空間が切り取られて壁の一部のようにもなったりする。そこに美しい景色があれば、風景画がかかっているかのように。そしてそこから心地よい風が吹いてくれば、これもまた情緒深いとおもう。

これからも、「窓について」いろいろ考えたり、文献を読んだりしていくつもりである。