Wednesday, May 19, 2004

XXXII-th stone: 自分が直接変化させれるものは自分だけ

人間の心。非常に不思議なものだ。
人間は「感覚を得て、それに反応する」ということを延々と繰り返して生きている。以前、この感覚と反応は連続的に起こるものではなく、感覚と反応の間にはスペースがあることを書いた。
物事は多数の捕らえ方を持つ。すなわち捕らえ方が違えば同じ事柄を体験または観測しても感じ方や見え方は異なるということだ。私は通常、ひとつの捉え方ではなくできるだけ多方面からの観察を心がけており、そのなかでできるだけ前向きな方を選び反応するようにしている。この物事の捉え方はレンズを通して事象をみるという風に比喩できて、いろいろな捕らえ方は異なったレンズを通して物事を見ることに対応する。

レンズの選択を可能にすることによって、物事を多面的に捉え、自分の反応に反映させていけることが好ましいのだろうが、このレンズの選択を妨げる厄介な存在もある。それは欲望だと思う。「こうしたい」という強い欲望。ぎゃくにその欲望がかなえられないことに対する強い反発感や自己憐憫にも似た感情が励起されるとき、多レンズのシステムは崩壊する。すくなくとも私の場合には。その欲望によってどうやって捉え方を変えようとしても元に戻ってしまうのだ。

これを書いていて思ったのだが、以前であればこういったことはなかったのではないか。自分は変化でき、変化を楽しむことができる。前向きに考える習慣がついていたころは、このような超ネガティブ思考は起きなかったはずなのだ。ポジティブに考えていたときにはきっとこう考えるだろう。いや、それよりも一番大切な事実を忘れていたのかもしれない。
「自分の周りの世界、他人も含めて、を直接変化させることは不可能だ。ただひとつ可能なのは自分を変化させることだけなのだ。」
自分の周りの世界は、この変化の後、2次的に変化してくるだけなのだ。
そう。今これを書いていて思い出すことができた。ネガティブ思考に陥るときは自分が変わろうとせず、周りの世界に対して不満ばかり投げかけているときなのだ。

この事実を胸に刻んで、これから少しの間生活しようと思う。

Thursday, May 13, 2004

XXXI-th stone: 伊勢参り

本日は友達とその友達の日本語を教えているアメリカ人・イギリス人の2人で伊勢参りにいってきた。夕方からは雨が強くなってきたが午前中、昼は雨はさほど強くなく快適にすごすことができた。

Wednesday, May 12, 2004

XXX-th stone: 先生お出迎え

今日は、ボスに頼まれて2年前に私の研究室で働いていた先生がアメリカから来日するというので迎えにいってきた。教授が向かえにいけなかったため情報がすくなく会える可能性は低かったのだが、会えてよかった。国際線でも成田経由で日本に入ってくる場合には国内線から出る便と国際線から出るものがあるのだ。

今回は国際線だと賭けて、国内線のほうにはアナウンスしてもらうことにして、国際線で待っていたのだがちょうど国際線から出てこられたのでよかった、よかった。

その後、久々の再開で話に花が咲き2時間以上も話しこんでしまった。
明日は友人と伊勢に行くことになっている。

Tuesday, May 11, 2004

XXIX-th stone: 久々のゼミ

今年のゴールデンウィークはかなりのんびり過ごしてしまった。約2週間学校へ行かずバイトと家を往復する毎日を送った。昨日行く予定であったが、大雨のためバイクが使えず結局自主休校とした。そして今日の午前中のバイトを経て今登校してきたところだ。

今日はどうしても来なければならなかった理由があるのだ。ゼミ。本当に久しぶりのゼミだ。ボスになんといわれるだろう?「何やってたん?」って言われそうだ(笑)。今日からまたがんばりますとしかいえないな。今日からまた研究再開としよう。2週間前に考えた案があったのだが、ボツになりそうな予感がするのはキツイな・・・・。


4時間の耐久ゼミ修了。ふぅ。ボスには特に2週間のブランクについては何も触れられなかった。よかったよかった。かねてから、自主ゼミ(ある教科書の輪講)をやれやれといわれていた、自分としてもやりたかったのだが先延ばしにしていたもの、を今週からついにはじめることとなった。その教科書というのは
D.Knuth et.al. "Concrete Mathematics"
だ。コンピュータを扱う場合の数学の基礎と書いてあるが、ボスによれば論文の種がゴロゴロしているらしい。そんな簡単に解ければほかの問題もとっくに解けていると思うのだが。ま、自分の糧になることは確実なのでがんばろう。しかしこの教科書、表紙に"Σ"が選ばれているのが納得できるくらいに、ほとんどのページに"Σ"が登場する。微積の教科書にインテグラルがたくさん出てくるのと同じなのだろう。離散的な空間では積分は和に対応するので納得できる。

そんなわけで、すごく"楽しそう"なゼミが今週の金曜から始まる。バイトと本研究とこのゼミと。バランスが大事になってくるだろう。

Monday, May 10, 2004

XXVIII-th stone: Long Vacation

いつぶりだろう。去年の年末以来、自分の内外にさまざまな事が起き、このポストを続けられなかった。しかし最近ようやく自分の中で踏ん切りがついたというか、再開してみようという気になった。

約5ヶ月間何が起こっていたかを説明したい。以前「許すということ」についての投稿をした。それに関係があるからだ。5ヶ月前ほどに考えていたことを書こう。

人の価値観は多種多様である。その価値観に沿って人間は行動を選択する。これは前から紹介しているとうりだ。そして人間の反応と行動の間には認識というスペースがある。が、しかし私は物事を体験した直後の「反応」が自分として許せない場合がある。自分の倫理観にそぐわないものや自分が他人にこうしてほしいのにしてもらえないという場合だ。他人にこうしてほしいというのは、他人の心を操作できない以上あきらめるしかないのかもしれないし、倫理観だって人それぞれだ。結局自分をコントロールする以外に方法はないのだろう。とおもっていたものの、うまくいかないまま時は過ぎていた。そんなとき、しかし倫理観というのはこんな多種多様でいいものなのか?この世の中でひとつの物事に対して「正しい」か「正しくない」というのは人によってそんなに違っていいものなのか?という疑問だった。そして「ゆるす」という行為について考えていたとき、こんな言葉をきいた。自分が他人の行為をみて気分を害するとき、それは自分でも行っている可能性が高い。というものだった。そうすると、「他人を許せない」ということは「自分でも許せないことを実際にしている」。そして「他人をなんとか許そうとしてる」ということは、「自分を許そうとしている」ということではないかと思うようになった。私がいままで「許す」という事をしたことがあるのだろうか?とも考えた。なんだかんだいっておきながら、結局「他人は他人。自分は関係ない。」と目を向けないようにして痛みを感じないようにしていただけなような気がする。そして最終的には「自分で自分を許す」事はできるのだろうか?と考えた。自分で自分を許してしまった場合には倫理観は崩壊する。倫理観というものが自分の中で存在が認識できる以上、自分で自分を許すことはできないのではないか。という結論にいたった。極論ではあるものの、自分が犯してしまった過ちは自分で許すことはできないのかもしれない。素直に認めて再び犯さないようにすればよいのだ。しかし他人に対して過ちを犯してしまい、それが許されないようなものだったら・・・。それはあまりにもつらすぎる人生ではないだろうか。自分でもその罪を許せず、相手にも許されず、そんな中を歩いていかなければならないのだろうか。また自分では悪いと思わないことも他人にとっては悪いことだった場合はどうなるのだろうか。と、「自分で自分は許せない」という事と「絶対的な倫理観」は存在するのだろうか?という事を考えていた。

5ヶ月のブランクはあったが、私なりにこの問いに答えが出たように思う。少し以前のバランスを失っているので、最初のころのようにたくさん投稿できるかどうかわからない。自己管理の方法が少し崩れてしまっている。最近やっとこさ少し戻ってきたように思えるため、このblogを再開したいと思う。

今はこのblogを読んでくれている人はほとんどいないと思うが、
また、以前読んでくれていた方がまた読んでくれることを願います。