Sunday, May 21, 2006

XCIV-th stone: 宗教は「選ぶ」もの

(「宗教」という言葉は日本では非常に敬遠される、いや嫌悪感や恐怖感をも抱かせる言葉だと思いますが、怖がらないで下さい。中を読んでもらえばわかると思います。)


倫理観や道徳観というのはどの宗教でも一致する点が多い。人を思いやったり、優しくしたり、愛をもって
接したり、逆に自分の醜さを知ったり、自分の弱さをしった上で人に接したり。
 
だから宗教を信仰する時、何が違うんだろう。これを考えてみると、どの宗教でもそれぞれの倫理観や道徳観に対する理由付けというのがある。「これこれこうだから、この倫理観は大切です。」とか。だから、宗教を信じるとういのは、その倫理観を信じるのではなくて、それに対する理由付けを信じるというウェイトの方が高いと思える。

理由付けというのは、非常に根本的な世界観から派生してきている。浄土真宗でいえば、阿弥陀様の本願という物からすべてを説明しようとするし、キリスト教で言えば創造主の存在を認め聖書にかかれている世界観から様々な倫理観を説明(正当化)する。

ここで、重要だと思うのは、どの宗教も、それが真実だとか正しいとか「証明」することは不可能だと僕が思う所だ。キリスト教でいえば「神の存在証明」とか、浄土真宗でいえば、阿弥陀様が本当に大業をしたのか、とか。これを証明するのは無理だと思う。前者においては、キリスト教神学だけではなく、偉大な哲学者達も証明を試みているそうですが、できていませんし、できないんだと僕は「思う」。だからこそ、僕の好きな言葉「知るために信じる」だと思う。

「宗教を信じる」という行為。今の日本では非常に恐れられている行為のように思う。
だけど、なぜそんなに恐れられるのか。確かに信仰宗教で非常に過激なものや、社会に対して悪影響を及ぼした物もある。が、それはほんの一握りだ。世界に広がっている3大宗教である仏教、キリスト教、ヒンドゥー教までも、その恐怖の対象になってしまっていると思う。

だれだって自分の思う倫理観を人と議論する際に自分なりに理由付けをすると思う。自分はこう思うから
それはいい、こういう理由があるからそれは悪いとか。人と議論するときに重要なのは、正当性だと思う。どっちの理由がもっともらしく聞こえるかじゃないだろうか。

そう考えると、「信じる」って事は、そんな時に、自分の意見はあるにせよ、既存の説明の中から、説得力のある、自分が納得できる説明を「選んでいる」だけと考えられる。

自分で納得できる理由付けに出会った時、たいていはその理由付けの根本にある世界観が自分にfitしてる
のを感じて、それを「選んで」みるという風にになるんじゃないかと思える。

「信じる」物であるのは確かにそうだと思うのだけれど、僕のように、ある程度成長してから様々な宗教に興味をもった人にとっては、

「宗教を信じる」

っていう行為は、単に信じるというよりもむしろ、自分にfitしている物を

 「選んで信じる」

という意識が強いんだと思う。少なくとも、僕はそう思う方だろうと思う。今は心から選べる選択肢には出会っていないのだが。

「宗教を信じる」っていうのは、みんな怖がるけれど、ただ、倫理観や世界観をどう説明したら自分が受け入れやすいかをたくさんある中から「選ぶ」という行為なんじゃないかと思う。繰り返し言うけれど、小さい頃から教えられてきた人にとってはかなり別な意味を持つと思うので注意してほしい。

最後に、

「地球上の人類の90%以上がなんらかの神(仏)を信じてる」

んだそうですよ。

Tuesday, May 16, 2006

XCIII-th stone: いつも心にPassionを!

私は、新しい知識を学ぶのが非常に好きだ。しかしながら、触れた時の喜びもさることながら、忘れてしまったときの悲しみもこの上ない物でもある。今日は「学習効率」について自分が学習した事を書こう。

まず、脳を図書館だと思ってみよう。
蔵書が何万冊もある図書館に言ったときの事を想像してみてほしい。巨大な建物でいくつものフロアに別れている。あなたは望みの本をさがすために入ったにもかかわらず、あまりの本の多さに圧倒される。さて、あなたはどうするだろうか。そう。検索の端末や蔵書のカードカタログのある所にいってタイトルをさがし、本が巨大な図書館の何処にあるかをさがすだろう。その端末があれば、欲しい時に瞬時に本が何処にあるかわかり、数分後にはあなたは本を借りる手続きをし、図書館を後に出来るだろう。

そうだ。つまり脳もこの「索引」の機能が無ければ、どれだけ大量の学習をしてもうまく機能できないという事なのだ。人間の脳は学習と経験を蓄えておける巨大な図書館なのだ。さて、あなたの脳にこれまで蓄えられてきた、イメージ、会話、講義、読んだ本の内容などはどのようにして整理されているのだろうか。

ここでちょっと実験をしてみてほしい。自分のカレンダーや手帳を参照せずに、先週自分が行った事をすべて書き出してみてください。どのくらい覚えているだろうか。思い出すのにどれだけ苦労をするだろうか。私が実践してみたところ、3日前の夕飯のメニューを思い出すのに、数分を要してしまった。ほとんどの人は何をしていたのかさえなかなか思い出せないのではないだろうか?
では、次に、ファーストキスや初体験の事を思い出してみてほしい。瞬間に、タイムスリップできるくらいに、周りの状況や感覚や感情がよみがえってきたのではないのだろうか。

この簡易実験からわかる事は、脳に蓄えられている情報はそれを蓄える際に持っていた感情に比例して検索しやすくなっているという事であり、つまり「脳の中の情報は基本的に感情によって分類される」と言える。もうちょっとコンピュータ系の人間にわかるように言えば「感情は脳のファイリング・システムである」と言えるのだ。

であるから、生活のあらゆる場面で感情高く、いろんな物への感受性を高めて生活する事こそ、効率よく様々な事を「学び」「使える」ようになる方法と言えるのではないのだろうか。

出典: ジェームズ・スキナー「成功の9ステップ」幻冬舎



最後に、「教える」という行為も重要だ。これは誰しも経験があるのではないだろうか。自分の獲得した知識を人に説明しわからせる際に自分の脳に蓄えられた知識にアクセスする。すると先ほどの感情以外のところで検索がしやすくなる(思い出しやすくなる)という事だろうか。また教える際には「わかりやすく教える」為に自分の中で教える事柄を何度も何度も思考するはずであるから、その思考の繰り返しの中で新たな知識の獲得や、深い理解、また異なった側面からの理解に出逢う事に成り、学習効率が増すという事に成るだろう。

つまり、感情豊に、いろんな物へ関心を持ち、感じやすい心で様々な事に接し、その感動を他の人に惜しみなく伝える事が、効率よく学習する事に繋がるのだろう。

Sunday, May 07, 2006

XCII-th stone: ラオウのごとく

数少ない読者へ。
現在、大学院博士後期課程在学中であるが、来年4月より東京にて就職する事がほぼ決定的となった。
今年度中に博士の学位取得は現実的に困難であると判断される。よって大学院は中退という形を採る事に成るだろうが、博士後期課程での生活に後悔は無い。

本学の博士後期課程は授業が開講されていない為、研究のみが単位と成る。よって時間にゆとりが出来るのも必然であった。

その時間があった故、本当に多彩な事柄について思慮を巡らせる事が出来た。宗教・哲学・人生・学問・科学・心理学・・・様々な事柄の事象を学ぶ時間を持つ事が出来た。同時に人類のこれまで積み上げてきた英知への畏怖・尊敬の念や、知の創造をしているのは「今」を生きている我々なのだという事の認識。私の在籍する大学は英語ではInstituteといわれる所だがを使っているが、これだけ沢山の分野の事を学べて、独学であるので全く足りないとは思うが、初めて大学(university)で学んだと実感できたような気がする。

又、同窓会がきっかけと成り、教会に通いクリスチャン達との交わりを持つ事ができたし、現在は友人の縁があって仏教青年会の方々との交わりを持つ事も出来ており、自分の宗教観・倫理観(この言葉には抵抗が強い方も多いと思う為価値観と読み替えていただいてもいいと思う)にも多いに影響を受け、大学院で博士課程へ進学しようと決めた3年前からは大分違っていると思う。

とにかく、この3年間を通して(いや、まだ二年とちょっとであるが)
・学問という物への認識・態度の変化
・宗教観・倫理観の変化
・研究に固執する事ない人生の方向性の発見
・人を好きになるという事をとおしての、対等なコミュニケーションの大切さ
と、本当にいろいろな事を学べたと思っている。この博士後期課程在学という期間は私を大きく変化させたと思う。この期間は私の人生の中で非常に有意義な時間を過ごせたのではないかと思っている。

確かに、博士後期過程へ進学し、中退の末、修士の学位のまま就職。客観的に見れば意味の無い3年間だったと判断されるだろう。なぜ博士後期課程へ進学したのかと言われると、これは修士課程の時にそれなりに考えて進んだ路であったという事であり、先述した事を目的とした訳ではないのは事実だ。博士後期課程在学中に時間にゆとりができ、様々な事を考える時間が持てた故、自分が変化し、それに伴って、以前設定した目標に変化が生じた、という事に成る。これを他の人はどう見るだろうか。逃げと見るだろうか。目標達成能力のなさに対する言い訳と見られるだろうか。どうみられようが私はかまわない。客観的評価の厳しさは私も納得しているので上のように判断されようとも反論はしない。しかし、言い訳と採られるだろうが、言わせてほしい。私はこの3年間に対する後悔は無い。いや後悔などする意味は無いのだ。

将来何が起こるか、自分にどんな変化が起こるかは、不確定な要素である。今この瞬間をこの命と毎日に感謝して、自分と真正面から向き合って生きる事が重要なのではないだろうか。将来の進むべき路を常に見続ける事は大切だが、進みたい方向の変化にも敏感であるのが良いと思う。長い人生、進むべき路はいくつも有るのだ。ただ重要なのは、進む路をその時その時で真剣に悩み、自分なりに考え、心から行きたいと思える路を選ぶ事だろう。進んだ先で進路変更が無いなどという事はあり得ないだろう。路を選んだときに真剣に全力で考えて選び抜いて選んだ路であるならば、それは「間違った路」ではないと思う。むしろ自分の変化に気づき、より自分の進みたい方向を発見できた事に喜ぶべきなのではないだろうかと私は思う。(あっち行ったり、こっち行ったりと流されるのが良いのかという議論は今回はおいておく)。
というのを、厳しい客観的判断への私の意見として置いておこう。

来年からは、これまで研究してきた分野とは多少違った事を仕事とする訳で有るが、この仕事が私の人生の方向性と100%一致している訳ではない。もちろん、一致している部分が有るが、部分的であるのだ。それ以外の人生の方向性を私は持っているのだが、現在その具体的な策を見いだせないでいる。今年も、来年も、その具体策を探る事はやめたくない。そしていつの日か自分の人生の方向性と100%一致する「仕事」、というか生業と表現したい、が見つかるのだろうか。それとも、仕事、個人的な活動といったいくつかの人生を組み合わせて自分の方向性と100%一致させて行くのだろうか。

そんな事はまだわからないが、私は自分の進む方向だけは失いたくない。そしてその方向というのは自分の置かれる環境で変化しうる故その変化を見失わないように、自分と素直に向き合って全力で生きて行く事だけはやめないつもりだ。「大」を成せるかどうか、それはわからない。しかしながら、この先の大きな目標としてここに宣言しよう。

それは、あの世紀末の覇者「ラオウ」のように
人生の最後に拳を空高く突き上げて

「我が人生に一片の悔いなし!」

と叫べる事だ。
どんな選択をしようともそれは自分の選択。反省はしようとも後悔はしない。
そんな風に自分の人生をこれからも生きて行こうと思う。