XCIV-th stone: 宗教は「選ぶ」もの
(「宗教」という言葉は日本では非常に敬遠される、いや嫌悪感や恐怖感をも抱かせる言葉だと思いますが、怖がらないで下さい。中を読んでもらえばわかると思います。)
倫理観や道徳観というのはどの宗教でも一致する点が多い。人を思いやったり、優しくしたり、愛をもって
接したり、逆に自分の醜さを知ったり、自分の弱さをしった上で人に接したり。
だから宗教を信仰する時、何が違うんだろう。これを考えてみると、どの宗教でもそれぞれの倫理観や道徳観に対する理由付けというのがある。「これこれこうだから、この倫理観は大切です。」とか。だから、宗教を信じるとういのは、その倫理観を信じるのではなくて、それに対する理由付けを信じるというウェイトの方が高いと思える。
理由付けというのは、非常に根本的な世界観から派生してきている。浄土真宗でいえば、阿弥陀様の本願という物からすべてを説明しようとするし、キリスト教で言えば創造主の存在を認め聖書にかかれている世界観から様々な倫理観を説明(正当化)する。
ここで、重要だと思うのは、どの宗教も、それが真実だとか正しいとか「証明」することは不可能だと僕が思う所だ。キリスト教でいえば「神の存在証明」とか、浄土真宗でいえば、阿弥陀様が本当に大業をしたのか、とか。これを証明するのは無理だと思う。前者においては、キリスト教神学だけではなく、偉大な哲学者達も証明を試みているそうですが、できていませんし、できないんだと僕は「思う」。だからこそ、僕の好きな言葉「知るために信じる」だと思う。
「宗教を信じる」という行為。今の日本では非常に恐れられている行為のように思う。
だけど、なぜそんなに恐れられるのか。確かに信仰宗教で非常に過激なものや、社会に対して悪影響を及ぼした物もある。が、それはほんの一握りだ。世界に広がっている3大宗教である仏教、キリスト教、ヒンドゥー教までも、その恐怖の対象になってしまっていると思う。
だれだって自分の思う倫理観を人と議論する際に自分なりに理由付けをすると思う。自分はこう思うから
それはいい、こういう理由があるからそれは悪いとか。人と議論するときに重要なのは、正当性だと思う。どっちの理由がもっともらしく聞こえるかじゃないだろうか。
そう考えると、「信じる」って事は、そんな時に、自分の意見はあるにせよ、既存の説明の中から、説得力のある、自分が納得できる説明を「選んでいる」だけと考えられる。
自分で納得できる理由付けに出会った時、たいていはその理由付けの根本にある世界観が自分にfitしてる
のを感じて、それを「選んで」みるという風にになるんじゃないかと思える。
「信じる」物であるのは確かにそうだと思うのだけれど、僕のように、ある程度成長してから様々な宗教に興味をもった人にとっては、
「宗教を信じる」
っていう行為は、単に信じるというよりもむしろ、自分にfitしている物を
「選んで信じる」
という意識が強いんだと思う。少なくとも、僕はそう思う方だろうと思う。今は心から選べる選択肢には出会っていないのだが。
「宗教を信じる」っていうのは、みんな怖がるけれど、ただ、倫理観や世界観をどう説明したら自分が受け入れやすいかをたくさんある中から「選ぶ」という行為なんじゃないかと思う。繰り返し言うけれど、小さい頃から教えられてきた人にとってはかなり別な意味を持つと思うので注意してほしい。
最後に、
「地球上の人類の90%以上がなんらかの神(仏)を信じてる」
んだそうですよ。