Friday, July 29, 2005

LXXI-th stone: 科学は"科楽"だ

「科学は"科楽"だ!」
これはかの有名なサイエンスプロデューサー米村でんじろう先生の言葉だ。

今日、ふとテレビをつけるとでんじろう先生のドキュメント番組を放映していた。米村先生のこれまでの実験ショーでは先生が教師時代に蓄積した実験をアレンジしながらこの10年間みんなに見せてきたが、今では忙しく仕事に追われる毎日で、新しいアイデアもなかなか出ないという。しかも昔のように身の回りに科学の楽しみがあふれているという事がなくなったという。そういう先生の苦悩を伝えていた。

その中で、先生が富山の講演でみせた蓄音機の実験に見せられた少年がいた。その蓄音機はレコード盤としてボール紙、レコード針としてカッターの刃、スピーカーとして紙コップを使った簡単なものだった。原理は誰でもわかる。しかし少年が見よう見まねで作っても、音はならなかった。その後半年, その蓄音機に見せられた少年は来る日も来る日も蓄音機の制作を続けた。どうしてもうまくいかない彼は先生へ質問状を送ったのだった。が、彼が受け取った先生からの返答は、なにかが刻まれたボール紙と、蓄音機の心臓部であるカッターと紙コップが繋がった部分であった。先生の工夫のつまった心臓部を受け取った彼は穴の開くほどその工夫を学ぼうと見続けた。そんなある日。彼が「こんにちは」を連呼しボール紙に録音していた時、スピーカーからかすかに「こんにちは」が聞こえたのだった!それが聞こえるまで半年以上。彼の根気強さには頭があがらない。

彼との交流を通じてでんじろう先生も彼から科学を楽しむということを思い出せたようである。新たなアイデアをもりこんだ実験の種が生まれたという事だ。

このテレビ番組を通して、私もとても勇気づけられた。最近私も研究を「楽しむ」という事を少し忘れていたようである。このでんじろう先生の「科学は"科楽"だ!」という言葉と蓄音機の少年のガッツをもらって、僕もこれから楽しもうと思う。

関連URL:
NHK にんげんドキュメント
http://http://www.nhk.or.jp/ningen/

Tuesday, July 19, 2005

LXX-th stone: a MUST Read

とにかく必読です.
Letter to the British People on the London Bombings from a Daughter of Iraq

Monday, July 18, 2005

LXIX-th stone: 手

今日、「手」の素敵さに気づいた。

人間はほぼすべての動作に手を使う。歯を磨くとき、窓を開けるとき、運転するとき、キーボードを打つとき、食事のとき、数え上げるのは不可能だ。そして、愛しい人を求めるとき、手をつなぎ合い、愛しい人に触れ、抱きしめる、ここにも「手」が存在する。

人間は心で感じ、脳で考え、それを行動に移す。その考えは言葉で出たり、涙になったりもするが、具体的に自分が動こうとするときの「手」には非常に大きなパワーを感じはしないだろうか。

有名なミケランジェロ作の「アダムの想像」という絵をご存知だろうか。ミケランジェロがローマにあるシスティーナ礼拝堂の天井画として旧約聖書の物語を描いた中の一つである。神が一番始めに作られた人「アダム」と「神」が手を伸ばし合って指先がふれている絵である。あのお互いの手がふれあう瞬間にもなにかパワーが感じられないだろうか。

「手」。みんなが持っているこの「手」で人間はいろんな事ができる。想像も。そして破壊も。人を愛する事も、傷つける事も。

また「手」というのは、人間の器官の中でも特に触覚の中枢である。そう。何かに触れて感じるとき、「手」が一番敏感なのだ。だからアダムの創造における手のふれあう瞬間にあれだけのパワーを感じるのかもしれない。私の個人的な意見だが、これは人と人との関係にも当てはまる。人と人が手をつなぐ時。それは単に人ごみの中ではぐれないようにするためにつないでいるだけではない。相手の手に触れ相手を感じれるとても素敵な瞬間なのだ。男女の関係で言えば、体を重ねる事はお互いの関係の中で大切な感情に繋がる大切な物であるのは否定しないが、そこまで直接的でなく、控えめな、手をつなぐという事。お互いの手を求め合い、お互いの手を受け入れて、手を絡め合う瞬間。これほどまでに優しさや愛にあふれた瞬間など有るのだろうか。

人間の「手」はこんな風にいろいろな素敵なパワーを秘めた素敵で大切な物だなと今日思った。